na85 のコメント

 『卑怯者の島』の感想にて失礼いたします。

 文中、実在の人物から採られたであろう名前に触れる際、敬称は略していることがあります。とくに尊敬する時浦師範代、申し訳ありません。

 この戦争物語は、あの「戦争のある時代」を駆け抜け、生き切った全ての日本人への、よしりん先生からの渾身の鎮魂歌だと感じました。全編を通して、あの時代を生きた人々への愛が溢れているように感じ、度々涙してしまいまた。これは反戦でも好戦でもなく、描写の恐ろしさにより単に厭戦を煽るためのものでもないと思いました。

 まずこの物語は、戦争に対して左右両陣営が抱く幻想を木端微塵に打ち砕いてくれたと思います。戦時下の内地の女性についてですが、左翼はよく「戦争で犠牲になるのは、必ず女性と子供だ」と紋切型に言います。しかし、個人の生存本能や生命力が最大限になるのが戦時であるため、劇中では女性もその本能を存分に発揮してくれています。
 女性の生命力の象徴として描かれた恩田美奈は、「軍神さま」と呼ばれる手足を失った村の有力者の傷痍軍人に見初められます。ここで右陣営が信じる愛国物語では、大和撫子は軍神さまの嫁になれることを、建前であっても名誉としなければならないはずです。しかし、美奈は「絶対に嫌だ」と言い、幼馴染の国武神平に婚約者のフリを頼んでこれを拒否しました。そして、軍神さまに啖呵を切って嫁入りを阻止してくれた神平には彼の出征前に体を許します。
 しかし、また別の場面では、もう一人の幼馴染の矢我通明に「戦争が終わったら頭のいい人の時代」だから「生きて帰ってきたら、お嫁さんになってあげる」と言います。そして戦後、激戦のあった島からたった一人帰還できた神平の前には、全く知らない青年の子を宿し臨月の大きな腹を抱えた美奈が現れます。
 つまり右に対しては、樺太の真岡郵便電信局の九人の乙女や、沖縄のひめゆり学徒隊のような聖女の美談ばかりに偏った見方をするんじゃないと挑発し、左に対しては実は女は全然弱くない、もっとしたたかなんだぞと迫っているかのようです。
 次に戦地の男たちについてですが、冒頭水際での凄まじい白兵戦描写において神平の卑怯な振る舞いを見せることで、まず右陣営が抱く日本軍人無謬論を徹底的に破壊し、同時に左が敵視してきた虚像をも破壊します。転進(撤退)した先の洞窟の場面では、死へのカウントダウンが聞こえるような絶望しかない地獄が描かれます。
 矢我少尉(通明の兄)が別部隊から調達してきた、玉砕戦を戦う最期の栄養源としての食料は、やがて生への執着に囚われた者たちに狙われます。重症のためもう戦えない身であるのに、盗んだ者から食料をもらって食べてしまった広井一等兵は、「生きたくて負けてしまう」から「殺してくれ」と言います。矢我は「死ぬべき時に死ななければ、人間は必ず堕落する」と言って彼を殺しますが、盗み食いした者たちを罰することはせず、「(食料を盗むという)今の卑怯も、明日の勇敢への布石かもしれぬ」として許します。そして自分も戦闘のできない体となったことを覚った矢我は、割腹自決して見せ、鉄兜に溜めた血液を斬り込み隊員に飲ませて玉砕部隊の皆を鼓舞します。これは、戦国以前の武士集団における血縁よりも濃い絆に相当し、最後の武人が大東亜戦争までは生きていたことを読む者に印象付けました。
 しかし、玉砕戦そのものでは結局戦果らしいものは挙げられず、偶然捕虜となった神平を除いては誰も生きて帰る事ができませんでした。戦果の期待できない玉砕戦を戦うのは犬死じゃないかという理屈はありますが、通明が言ったように「意地を捨てたら戦争には勝てない」と思います。矢我少尉が卑怯を犯してまで救おうとし、少尉との血の盟約も交わしていない通明が玉砕戦へ合流したのは、彼の言葉の通り、そこには「意地しかない」からでしょう。
 此処で思い出されるのは『戦争論』の1シーンで、特攻隊に志願した学鷲たちを取材したジャーナリストに、一人の若者が答えた言葉です。「簡単に勝てるとは思っていません」が、我々の戦いは「講和の条件にも関わってきますよ」「そう、民族の誇りにね」という件です。『戦争論』を最初に私が読んだとき、最も心を捉えたのが学鷲の澄み切った表情とともにあるこの言葉でした。おそらく通明の玉砕前の言葉はこれに通じていると思います。
 かつて宮崎哲哉氏が『戦争論』を批判していた頃犬死批判をしていましたが、『戦争論』の上記エピソードに加え、今次の『卑怯者の島』の通明のセリフにより、この異議に対しては完璧な回答を出されたと思います。

 また、最期の作戦遂行前に通明が、神平とともに育った故郷での良き思い出を語ったのは、例え今の非人間的な戦場が現実であっても、自分達を育んだ故郷が確かに存在したことの確認だと思われ、それは単なる感傷でもなく、彼の地の愛しき者たちを守るためには今戦うしかないんだという、私と公との葛藤から個人としての決断に至る過程において必要な儀式のようなものだと、私には思えました。
 そんな彼らと対照的に描かれたのが時浦上等兵です。故郷では母や兄弟たちに常に暴力を振るう父とともにあり、兄弟を守るためやむを得ず父に対して暴力で反撃し、以来卑屈になった時浦の父ですが、彼の出征時には「死んで来い」とばかりに満面の笑顔で送り出しました。つまり時浦は、故郷から半ば切り離され、戦う動機を矢我隊長への個人的な忠誠心や観念的な何かで埋めるしかなかったのであり、おそらく、それゆえ最期の時点での弱さにつながり、判断を誤って作戦の失敗に帰結したのだと思われます。

 さて、ここから極めて不遜な言い方をしますが、お許しいただきたいと思います。戦争の時代に、実際に戦場で戦い、散ってゆき、同じように靖国神社に祀られている英霊たちも、皆が同程度に尊敬を受けるような人格であったわけではないと思います。運に恵まれなかったせいもあって、勇敢と卑怯の葛藤において卑怯の方へ流されることの多かった人もいたと思います。しかし、それでも、あの時代にあの戦場で戦ってくださった人は皆、顕彰を受ける資格があるのだという、極めて当たり前のことを再認識させてくれるという意味で、これは「靖国物語」の側面もこの作品にはあると思います。
 戦後は、戦地でのことを何も語らなくなった元日本兵たちは、おそらくどう言葉を尽くしたとしても戦後の日本人に通じるとも思われず、下手に喋れば嘘も混入するかもしれず、それでは亡くなった戦友に申し訳が立たないと感られじたのかもしれません。英霊に成り損ねたことで、死に場所と生きる意味を同時に失った人々の声無き声を、よしりん先生が限界まで思想・推量し、渾身の力で以って紡ぎ出された物語が『卑怯者の島』という作品なのだと考えます。

 翻って現代日本という「卑怯者の列島」は、米軍基地という偽りの安全装置により、死神が極限まで遠ざけられている幻想が横たわり、そのために逆に生の輝きもほとんど感じられず、自己肯定感とともに生の実感が失われれば、簡単にその刃は弱者に向かうという世相です。
 現代日本が舞台の最後のシーンにおいて、死に場所を求めて彷徨っていた老神平は、若い女性を人質に取って立てこもらんとしたバスジャック犯の青年が持つナイフを、青年が持つ手のまま自らの腹に、割腹自決するような格好で突き立てました。そして、これでやっと戦友たちの元に還れると言って…。
 一読後、この物語はこんな結末を迎えるしかなかったのかと悲しく思いました。しかし再読・三読してからは、戦死者にも生還者にも非常に冷淡になった戦後日本、ひょんと死んだ骨を顧みなくなった日本では、やはりこれ以外の結末は有り得ないのだと思うようになりました。

 あの戦争のある時代を生き切った全ての人達、とりわけ戦後は誰もスポットライトを当てなくなった人達への大きな愛に溢れ、また真実(への漸近線)を深く探究しながらも、その愛を途切れさせることなく歌い上げられた一大叙事詩のように感じました。同時に、生の輝きを得にくい現代日本人にも、生き方の指針を与えてくれるものだと思います。さらには戦死者の視線を意識させることで、戦争の時代から地続きの現代の日本国において、その為政者が道を誤らぬようにと見張っているかのようにも思えます。

 私はきっとこの作品を、これからも何度も何度も読み返すはずです。日本が再びこれから戦争の時代に突入するのか、それとも踏みとどまれるのか、予断は一切許しませんが、これから自分が遭遇する勇敢と卑怯との葛藤の場面において、正しい決断を下せるように思想を深める努力をしたいと思います。
 本当に、本当に素晴らしい作品を世に送り出していただきました。ありがとうございました。 (了)

 短文にまとめきれず長文になってしまい、申し訳ありませんでした na85

No.113 113ヶ月前

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