こいら のコメント

切通師範のブログで、今の若手言論人の主体性のなさを嘆いていらっしゃったのですが、日本人が共同体の同調圧力に負けて周りからはみ出さないように空気を読み過ぎる習性とも無関係ではないと思います。
ちょっと前に、図書館でカントとヘーゲルとフッサールを読みました。そこから感じたのですが、欧米では教会中心の共同体の下に、一神教の神の信託の下に世俗的個人があって、その間に世俗的な支配層としての国家権力が君臨してるというモデルがあるというものでした。その中で個人というか市民は国家に対して徴兵という形で参加すると共に、権力の支配から個を守るために常に哲学的な問いかけをしながら生きている存在だ、ということです。市民というものは兵役を通して国家に参加すると共に、私有財産や個人の権利を制約する国家というものから個人を守るために様々なことをやっていたという歴史があるのです。
特に、ヨーロッパ大陸では様々な王朝や国家が入れ替わったり、他国や他の文明からの侵略の連続がそのまま歴史としてあったため、ヨーロッパの市民は個を守るためにある時は軍隊に入り、ある時は現場で働いて私有財産を得ていたと。国家は個人を守る存在でもあるし個人の私的領域に踏み込む存在でもあったのです。そしてその歴史の中からヨーロッパ型の民主主義や立憲主義が生まれたのです。そうなると日本の戦後民主主義で知識人が強調していた「何でも自由に好き放題やれる存在が近代的個人である」という命題が間違っているということなのです。
個を確立するためには主体性を持って「何を守るべきか」ということを常に考えていないと、命を失うというのが欧米人が考える「個」のスタンダードなのです。
ところが日本では天皇を中心にした家族共同体的な生産の現場が有史以来あって、周りと協調性を持って大人しく畑でも耕していたら食うに困らない時代が長らく続いていたのです。どうしても「個」について哲学的に考える習慣や歴史もないし、他人との利害関係を調整する能力にさえ長けていればそこそこ出世できるし、命も安堵できる時代が続いていたのです。
まさに、大東亜戦争は欧米の個人主義と日本の共同体意識との衝突でもあったし、初めて日本人が「個」とは主体性を持ち血を流さないと守れない、という課題に向き合った歴史的事件でもあります。そのことは特攻隊で散った兵士の遺書からも分かるはずです。
そして今でも、個の確立とは血を流さないと不可能だ、というのが世界のスタンダードであることは変わりないのです。そんな状況の中で、主体性がない調整型の考え方だけで言論を行い、論争をするという発想は欧米の人間からするとよく分からない考えであり、日本国内の、それも限られた陣営の中でしか通用しない考え方でもあります。
目の前の論争よりも、自分の陣営の同調圧力の方が気になる、という考え方が、やたらとSNSを気にする若手言論人の中にもあるというのは、極めて日本的な風潮から抜け切れていない証拠なのかもしれません。

No.75 115ヶ月前

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