よしりん師範、木蘭師範、時浦師範代、みなぼん編集長、スタッフの皆様、執筆・編集・配信ありがとうございました。 初期ゴー宣の頃から貫かれているテーマとして「思考停止するな」があると思います。物事を判断する基準は「わしの常識」だというのも一貫しています。そして、よしりん先生は今もこの姿勢には全くブレがないと思います。「小林は日和見しながら左右によくブレる」という人がいますが、意見が変わったとしても、それは時代状況に合わせてポジションを自ら選びとったのであり、この核の部分には全くブレがないのだと思います。 今回のゴー宣で先生が最後にあえて表明された「小林よしのりのポジション」=「常識というバランス感覚で判断する」についてですが、真の保守とはこういうものだと思いました。西部邁氏は「伝統とは綱渡りにおける平衡棒のようなものだ」と仰いましたが、歴史の英知である伝統の中で既に因習化した部分を削ぎ落としたものこそが、今現在にも通用する常識だと思います。 かつて、よしりん先生が漫画という強力な武器を携えて思想界に殴り込んだことを指して「竹槍で戦っていた論壇村に核爆弾を持ち込んだ」と誰かが形容しましたが、重要なのは漫画が強力な武器だという点ではなく、自分の常識に照らしてオカシイと判断したら軌道修正も辞さず、正しいと思う方向へ突き進んでいくというよしりん先生の姿勢そのものが、左右のポジションに安住する言論人にとっては怖いはずなのです。 だから言論人たちは、自分たちにとって都合の良いことを言っている間は(内心怖がりつつ)味方のフリをしておき、都合の悪いことを言いはじめたら急旋回して敵視しはじめるのでしょう。また、いつ敵になるかも判らず怖いから今のうちに叩いておきたいという心理も働くわけです。結局言論人のほとんどは付和雷同しやすい日本人そのものであり、足軽的集団主義の人なのかもしれません。 平安から戦国までの武士のように個人として戦える人なら自分の頭で考えて発言すれば良いのですが、左右の学閥に属す学者や、左右の政党・派閥に属す政治家、左右のメディアで役割を与えられるジャーナリストや電波芸人に至るまで、多くの言論人は足軽的な頭数の人となり、自分の属してきた世間の空気に逆らうことができず、ついには考えることも放棄し、左右のポジションからの発言しかできなくなていくのでしょう。 生きるために仕方なくやっているという面もあるのでしょうが、自分たちが世論形成に影響を与えている存在だという自覚もないまま発言されたのでは、為政者に国の行く末を誤る決定をさせ続けることになります。もちろん中には、分かっていてもニヒリズムに囚われたまま喋っている人もいるでしょうし、さらには確信犯的にやっている人もいると思いますが…。 しかし、外交や軍事の主体を米国に握られたままの戦後70年間続いてきたレジームのままでは、イスラム原理主義によるテロの脅威にも、近隣国家による侵略の脅威にも、そして欧米とのルールをめぐる争いにも対処できず、危機は去りません。ニヒリズムに囚われたまま何も考えたくないと構える人や、見たいモノしか見たくないと言ってポーズだけ強硬な指導者に「いいね!」を押し続ける人、そして自分が生きてる間さえ安泰なら後は知ったこっちゃないと嘯く人、これらの私的空間に閉じこもる人々にも否応なく破滅は平等に訪れます。 さて、そうであれば足軽的集団主義の言論人には最早何も期待せず、メディアに騙されないで自分の頭で考えられる個人としての庶民の覚醒を待つしかないわけです。そこで『新戦争論1』をはじめとするよしりん先生の作品群です。この救世の書籍群は、口だけで勇ましいことを言っていても結局は米国頼みという好戦ポジショナーにも、米国庇護下が前提のお花畑な反戦ポジショナーにも受け入れがたいものでしょうが、ポジションから離れて考えてみようとする庶民にとっては個人としての覚悟を問い、覚醒を迫るものだと思います。 さて、硬派な「警世の書」についての論評から一転して「H大好き40才」ですか(笑)。「ゴー宣」の毎回のテーマ設定にも「わしズム」の編集方針にも貫かれていた、こういった振れ幅の大きさがいつもながら素晴らしいと思います。前回の邪神に辟易していた読者にとって、今回の無邪気な(?)女神のエピソードはホッとします。でもこれ、よく考えたら笑って済ますことのできない被害がある事例ですよ。10年前だったから削除すればOKでしたが、今ならSNSを介して拡散されまくり、ネット世界から永遠に消えない事態になっていたでしょう。 ちなみに、この3人の中ではDTネット住人からの人気が一番高かったりして(笑)。 ネット世界は人をより頭数の存在に近づける na85
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よしりん師範、木蘭師範、時浦師範代、みなぼん編集長、スタッフの皆様、執筆・編集・配信ありがとうございました。
初期ゴー宣の頃から貫かれているテーマとして「思考停止するな」があると思います。物事を判断する基準は「わしの常識」だというのも一貫しています。そして、よしりん先生は今もこの姿勢には全くブレがないと思います。「小林は日和見しながら左右によくブレる」という人がいますが、意見が変わったとしても、それは時代状況に合わせてポジションを自ら選びとったのであり、この核の部分には全くブレがないのだと思います。
今回のゴー宣で先生が最後にあえて表明された「小林よしのりのポジション」=「常識というバランス感覚で判断する」についてですが、真の保守とはこういうものだと思いました。西部邁氏は「伝統とは綱渡りにおける平衡棒のようなものだ」と仰いましたが、歴史の英知である伝統の中で既に因習化した部分を削ぎ落としたものこそが、今現在にも通用する常識だと思います。
かつて、よしりん先生が漫画という強力な武器を携えて思想界に殴り込んだことを指して「竹槍で戦っていた論壇村に核爆弾を持ち込んだ」と誰かが形容しましたが、重要なのは漫画が強力な武器だという点ではなく、自分の常識に照らしてオカシイと判断したら軌道修正も辞さず、正しいと思う方向へ突き進んでいくというよしりん先生の姿勢そのものが、左右のポジションに安住する言論人にとっては怖いはずなのです。
だから言論人たちは、自分たちにとって都合の良いことを言っている間は(内心怖がりつつ)味方のフリをしておき、都合の悪いことを言いはじめたら急旋回して敵視しはじめるのでしょう。また、いつ敵になるかも判らず怖いから今のうちに叩いておきたいという心理も働くわけです。結局言論人のほとんどは付和雷同しやすい日本人そのものであり、足軽的集団主義の人なのかもしれません。
平安から戦国までの武士のように個人として戦える人なら自分の頭で考えて発言すれば良いのですが、左右の学閥に属す学者や、左右の政党・派閥に属す政治家、左右のメディアで役割を与えられるジャーナリストや電波芸人に至るまで、多くの言論人は足軽的な頭数の人となり、自分の属してきた世間の空気に逆らうことができず、ついには考えることも放棄し、左右のポジションからの発言しかできなくなていくのでしょう。
生きるために仕方なくやっているという面もあるのでしょうが、自分たちが世論形成に影響を与えている存在だという自覚もないまま発言されたのでは、為政者に国の行く末を誤る決定をさせ続けることになります。もちろん中には、分かっていてもニヒリズムに囚われたまま喋っている人もいるでしょうし、さらには確信犯的にやっている人もいると思いますが…。
しかし、外交や軍事の主体を米国に握られたままの戦後70年間続いてきたレジームのままでは、イスラム原理主義によるテロの脅威にも、近隣国家による侵略の脅威にも、そして欧米とのルールをめぐる争いにも対処できず、危機は去りません。ニヒリズムに囚われたまま何も考えたくないと構える人や、見たいモノしか見たくないと言ってポーズだけ強硬な指導者に「いいね!」を押し続ける人、そして自分が生きてる間さえ安泰なら後は知ったこっちゃないと嘯く人、これらの私的空間に閉じこもる人々にも否応なく破滅は平等に訪れます。
さて、そうであれば足軽的集団主義の言論人には最早何も期待せず、メディアに騙されないで自分の頭で考えられる個人としての庶民の覚醒を待つしかないわけです。そこで『新戦争論1』をはじめとするよしりん先生の作品群です。この救世の書籍群は、口だけで勇ましいことを言っていても結局は米国頼みという好戦ポジショナーにも、米国庇護下が前提のお花畑な反戦ポジショナーにも受け入れがたいものでしょうが、ポジションから離れて考えてみようとする庶民にとっては個人としての覚悟を問い、覚醒を迫るものだと思います。
さて、硬派な「警世の書」についての論評から一転して「H大好き40才」ですか(笑)。「ゴー宣」の毎回のテーマ設定にも「わしズム」の編集方針にも貫かれていた、こういった振れ幅の大きさがいつもながら素晴らしいと思います。前回の邪神に辟易していた読者にとって、今回の無邪気な(?)女神のエピソードはホッとします。でもこれ、よく考えたら笑って済ますことのできない被害がある事例ですよ。10年前だったから削除すればOKでしたが、今ならSNSを介して拡散されまくり、ネット世界から永遠に消えない事態になっていたでしょう。
ちなみに、この3人の中ではDTネット住人からの人気が一番高かったりして(笑)。
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