『新戦争論1』を拝読いたしました。まずツカミの第1章に衝撃を受けました。 死の危険もなく、罪悪感もなく、ゲーム感覚で、お手軽に、敵と定めた人々を殺傷できる無人機の登場は、第1期『戦争論』の「悪魔の戦争」の章で描かれた米軍による都市空襲と2発の原爆からわずか半歩先程度にある現実だという気がしました。そして、不気味な黄色い猿を殺すのに躊躇の無かった米軍航空兵から、不気味な異教徒を無人機で殺すことに躊躇しない仮想の某国少年、さらには携帯ゲームに敵キャラとして登場する現実の他国民殺傷を楽しむ某国青少年までが一続きの延長線上にあるように思います。 兵器のハイテク化によって戦争での死の危険が低下されることは、相手が生身の人間であることを認識できなくなって殺すことに葛藤が無くなり、それはそのまま、気に入らない属性の人々に街頭で平気で「殺せ」などと叫ぶヘイトスピーチや、実存を得るための殺人とも地続きであるように思います。 これ以降の章でも、戦争の現実感、覚悟、当事者意識を持てと全編にわたって繰り返し語りかけられる内容でしたので、殺す覚悟、殺される覚悟、自決する覚悟を持たない限り、これらをリアルに認識しない限り、迂闊に戦争を語ることさえ憚られるような気持になっていきました。 本論では、かつての戦争論のテーマ「個と公」がより判りやすく解説され、「公と私の葛藤を乗り越えて個人として決断を下す」とされていました。これは戦争を起こす為政者の決断だけでなく、出征する兵士個人の決断や、実際に戦場に立たされた個人が敵兵を殺すとき、あるいは進退窮まって自決するときなどの決断も含んでいるように思います。 「戦争するべきだ」(自称保守)「悲惨だから戦争すべきではない」(リベラル左翼)と、米軍に守られたままの状況がこの先も続くという想定で、机上の空論を戦わすことの無意味さが浮き彫りになっていきます。このようにリアリティ―のない戦争観に戦後70年覆われているから、日本は大東亜戦争の総括も直近のイラク戦争の総括も不可能にしていると感じました。 戦争から離れて久しい現代日本人がリアルな戦場を想定するためのテストケースとして、沖縄の少女学徒隊と竹内浩三さんの詩が取り上げられています。 出生前から語り起こされていた信子さんと貞子さんはその育ちのままに陽気で朗らか、戦場でも溌剌と兵士たちの世話をされていたのでしょう。詳しくは書きませんが、最期のシーンでは、その覚悟を感じて鳥肌が立ちました。武士が負け戦の戦場に赴くときの作法に近いものを感じたからです。彼女たちは靖国神社にカミとして祀られ、そして顕彰されて当然だと感じました。 竹内浩三さんは自分の感性のままを詩に綴っていくタイプの方のようです。それだけに、残された詩編にはウソ偽りのない本心が炙り出されており、私心と公心の葛藤が痛々しいぐらいに伝わってきました。戦後70年間はひよんと死んだ戦死者の骨に対して余りにも余所余所しすぎた、そう思います。 他国軍に侵略されたらテロに身を投じたいが、捕まったとき拷問に耐えられるか…? na85
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『新戦争論1』を拝読いたしました。まずツカミの第1章に衝撃を受けました。
死の危険もなく、罪悪感もなく、ゲーム感覚で、お手軽に、敵と定めた人々を殺傷できる無人機の登場は、第1期『戦争論』の「悪魔の戦争」の章で描かれた米軍による都市空襲と2発の原爆からわずか半歩先程度にある現実だという気がしました。そして、不気味な黄色い猿を殺すのに躊躇の無かった米軍航空兵から、不気味な異教徒を無人機で殺すことに躊躇しない仮想の某国少年、さらには携帯ゲームに敵キャラとして登場する現実の他国民殺傷を楽しむ某国青少年までが一続きの延長線上にあるように思います。
兵器のハイテク化によって戦争での死の危険が低下されることは、相手が生身の人間であることを認識できなくなって殺すことに葛藤が無くなり、それはそのまま、気に入らない属性の人々に街頭で平気で「殺せ」などと叫ぶヘイトスピーチや、実存を得るための殺人とも地続きであるように思います。
これ以降の章でも、戦争の現実感、覚悟、当事者意識を持てと全編にわたって繰り返し語りかけられる内容でしたので、殺す覚悟、殺される覚悟、自決する覚悟を持たない限り、これらをリアルに認識しない限り、迂闊に戦争を語ることさえ憚られるような気持になっていきました。
本論では、かつての戦争論のテーマ「個と公」がより判りやすく解説され、「公と私の葛藤を乗り越えて個人として決断を下す」とされていました。これは戦争を起こす為政者の決断だけでなく、出征する兵士個人の決断や、実際に戦場に立たされた個人が敵兵を殺すとき、あるいは進退窮まって自決するときなどの決断も含んでいるように思います。
「戦争するべきだ」(自称保守)「悲惨だから戦争すべきではない」(リベラル左翼)と、米軍に守られたままの状況がこの先も続くという想定で、机上の空論を戦わすことの無意味さが浮き彫りになっていきます。このようにリアリティ―のない戦争観に戦後70年覆われているから、日本は大東亜戦争の総括も直近のイラク戦争の総括も不可能にしていると感じました。
戦争から離れて久しい現代日本人がリアルな戦場を想定するためのテストケースとして、沖縄の少女学徒隊と竹内浩三さんの詩が取り上げられています。
出生前から語り起こされていた信子さんと貞子さんはその育ちのままに陽気で朗らか、戦場でも溌剌と兵士たちの世話をされていたのでしょう。詳しくは書きませんが、最期のシーンでは、その覚悟を感じて鳥肌が立ちました。武士が負け戦の戦場に赴くときの作法に近いものを感じたからです。彼女たちは靖国神社にカミとして祀られ、そして顕彰されて当然だと感じました。
竹内浩三さんは自分の感性のままを詩に綴っていくタイプの方のようです。それだけに、残された詩編にはウソ偽りのない本心が炙り出されており、私心と公心の葛藤が痛々しいぐらいに伝わってきました。戦後70年間はひよんと死んだ戦死者の骨に対して余りにも余所余所しすぎた、そう思います。
他国軍に侵略されたらテロに身を投じたいが、捕まったとき拷問に耐えられるか…? na85