小林先生、みなぼんさん、スタッフの皆様、こんばんは。お疲れ様です。 24日付けの道場ブログ、小林先生の『脱原発論』こそがわしの覚悟である!を読み、ここ数日感じていた虚無感と、小林先生が全霊をかけて訴えて下さっていることをどうにも無視できず、パソコンに向っています。 「3号機プールに鉄骨落下」くらいの事故ではもはや大きなニュースにもなりません。私も、再び国土を失うような大きな惨事が繰り返されなければ、人は「コト」の大きさを実感できない生きものなのかもしれないと思い始めています。有事に関してもそうですよね。 人が、自然や民族や国家、果ては地球というものをどう「扱うか」を見誤ったとき、見えないチカラのようなものが人に学ばせるため、4号機の核燃料プールを支え続けることをやめることだってあるのではないか、と思ってしまうのです。‥こういうことを言うと、“電波”とか言われて一笑に付されてしまうのですが。。そういえば“オカルト”とも言われましたっけ(笑)。 戦争論、天皇論、全てのゴー宣における提言の中で、先生は「情と理」を説き続けてくれました。しかし「神は死んだ」とするニーチェの言葉を誤読する人がいるのと同じほどに、「反感」をもって拒絶されているのも事実です。大真面目に思うのですが、人類の長い歴史の中で「聖人」に列せされる人々のほとんどが迫害を受けたのち、何百年も経ってから讃えられるというのが歴史の常です。科学分野でもコペルニクスやガリレイなどへの認識もそうです。私はここで先生を「永久の推しメン」として、堂々と推すばかりですが★ うーん。“2012年アセンション説”なんて笑ってましたが、実際問題、一国家の終わりだったらもっとリアルに危機は差し迫っている‥のが「今」なのではないかと考えてしまいます。少し前のブログで先生が『脱原発論』の発売を前に“ノアの箱舟”に例えて言われた一言、(正確でなかったらすみません)「アニマルではなく、善良な人々を乗せようと思う」が深く心に刻まれています。意識改革のようなものが行き渡らなかった結果、自分達が選んでしまった「退廃」や「終焉」のようなものを迎えたとしたら、最後まであきらめようとしなかった個人の自我レベルでの「在り方」でしか救いはないのかもしれない。。とさえ思うのです。 一人でも多くの人々と、融和した希望の未来に生きたい。 それだけが願いなのに、大きな愛を受け取ろうとする人があまりに少な過ぎる。 皆、“愛”を信じていない。愛することも愛されることも怖れている。 そう感じてなりません。 先生が危険分子だなんて(笑) 大き過ぎて、受け止めきれないし、認めたくもない。 残念過ぎます。 「時間はあまりないかもしれない」と思いながら、私も『ばかやろ――――――っ!』と思っています。
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小林先生、みなぼんさん、スタッフの皆様、こんばんは。お疲れ様です。
24日付けの道場ブログ、小林先生の『脱原発論』こそがわしの覚悟である!を読み、ここ数日感じていた虚無感と、小林先生が全霊をかけて訴えて下さっていることをどうにも無視できず、パソコンに向っています。
「3号機プールに鉄骨落下」くらいの事故ではもはや大きなニュースにもなりません。私も、再び国土を失うような大きな惨事が繰り返されなければ、人は「コト」の大きさを実感できない生きものなのかもしれないと思い始めています。有事に関してもそうですよね。
人が、自然や民族や国家、果ては地球というものをどう「扱うか」を見誤ったとき、見えないチカラのようなものが人に学ばせるため、4号機の核燃料プールを支え続けることをやめることだってあるのではないか、と思ってしまうのです。‥こういうことを言うと、“電波”とか言われて一笑に付されてしまうのですが。。そういえば“オカルト”とも言われましたっけ(笑)。
戦争論、天皇論、全てのゴー宣における提言の中で、先生は「情と理」を説き続けてくれました。しかし「神は死んだ」とするニーチェの言葉を誤読する人がいるのと同じほどに、「反感」をもって拒絶されているのも事実です。大真面目に思うのですが、人類の長い歴史の中で「聖人」に列せされる人々のほとんどが迫害を受けたのち、何百年も経ってから讃えられるというのが歴史の常です。科学分野でもコペルニクスやガリレイなどへの認識もそうです。私はここで先生を「永久の推しメン」として、堂々と推すばかりですが★
うーん。“2012年アセンション説”なんて笑ってましたが、実際問題、一国家の終わりだったらもっとリアルに危機は差し迫っている‥のが「今」なのではないかと考えてしまいます。少し前のブログで先生が『脱原発論』の発売を前に“ノアの箱舟”に例えて言われた一言、(正確でなかったらすみません)「アニマルではなく、善良な人々を乗せようと思う」が深く心に刻まれています。意識改革のようなものが行き渡らなかった結果、自分達が選んでしまった「退廃」や「終焉」のようなものを迎えたとしたら、最後まであきらめようとしなかった個人の自我レベルでの「在り方」でしか救いはないのかもしれない。。とさえ思うのです。
一人でも多くの人々と、融和した希望の未来に生きたい。
それだけが願いなのに、大きな愛を受け取ろうとする人があまりに少な過ぎる。
皆、“愛”を信じていない。愛することも愛されることも怖れている。
そう感じてなりません。
先生が危険分子だなんて(笑)
大き過ぎて、受け止めきれないし、認めたくもない。
残念過ぎます。
「時間はあまりないかもしれない」と思いながら、私も『ばかやろ――――――っ!』と思っています。