na85 のコメント

    (続き)
 天皇の系譜を神代の初めから物語る『古事記』では、女性のカミ・天照大御神が最高神であり、天皇へとつながる皇祖神です。神話から歴史へ一続きとなった物語が神代から人代に移っても、カミと交信できる最高位の神官は天皇の親族の女性であり、むしろ天皇より権威も権力も強かった時代が続いていたわけです。天皇とその巫女によるヒメ・ヒコの制度です。
 崇神天皇の大叔母に当たり、巫女でもあったヤマトトトヒモモソヒメは大物主神と神婚し、その神託を受けて時の政治に大いなる影響を与えたとされ、この人物こそ『魏志倭人伝』において、鬼道を用いて人々を操ったとされる卑弥呼ではないかと言われています。
 また、仲哀天皇の皇后にして巫女だった神功皇后は、反乱を起こした南九州のクマソを征伐するより、朝鮮半島に遠征すれば三韓を服属させられるとの神託を受け、これを天皇に伝えました。しかし天皇がこの通りにしなかったため急死したとされます。その後皇后は、後の応神天皇を妊娠中だったにも関わらず、遠征して三韓を服属させ、帰日してから皇子を産んだとされます。

 かくのごとく日本は、女性が力を持つ国柄であったのに、儒教と道教が支配的な大陸の強大な軍事国家と隣接していたため国柄を偽らざるを得なかったのです。

 例えば日本神話においては、イザナキとイザナミが天ノ御柱を巡って出会ったとき、最初に女性神イザナミから声をかけ、イザナキがそれに応える形をとったわけですが、その結果生まれた子がヒルコという骨の無い子だったため葦船に乗せて流したとされます。
 この件は大陸の思想である道教の陰陽論に影響を受けていると思われます。本来(陽である)男の側から声をかけなければならなかったのに、(陰である)女の側から声をかけたのがいけないというのが、二神が天津神に相談したとき受けたアドバイスでした。縄文期以来の日本文化的には、女性側から誘うことは全く問題なかったはずであり、男性を迎え入れるかどうかの主導権・決定権も、むしろ女性側にあったはずなのですが、大陸の強国から文明国として扱ってもらいたいという配慮が働き、記紀神話においては内容が変質したものと思われます。

 それでも、遣唐使を廃止した平安中期以降や江戸期全般など、外国との関わりを可能な限り制限した時代には、すぐに地が出てきて、元の女性が輝く時代となりました。
 平安京の宮廷では女官たちが女流作家や女流歌人となって数多く活躍しましたし、平安貴族たちは歌を詠んで妻問したわけですが、女性に拒否されれば諦めてスゴスゴ引き下がったはずです。小野小町に「百夜連続で通ってくれたら、貴方を受け入れる」と言われた深草少将が毎夜通い詰めた挙句、百夜目に死んでしまったという可哀そうな話も残っています。
 
 さて、時代は下って武士が政治の実権を握る時代が続き、鎌倉期には大陸の軍事国家・元の侵略や内部の政変などもあり、さらに室町末期から100年間内乱の時代が続き、それが大坂の陣によって完全に終わりを告げた頃、やっと海外からの侵略も内部の政変や戦乱もほとんどない平安以来の平和な時代、江戸期に入りました。
 しかし、武断的で男性的な時代が終わっても、なお男尊女卑的傾向を保っていたのは、やはり武士階級でした。徳川幕府は政策として大陸の朱子学(儒学の一派)を官学と定めましたが、これは秩序を重んじ、上に逆らわない忠の思想を定着させることで謀反を防ぎ、乱世の侍を治世の官僚に変えるための政策でした。その朱子学の影響を強く受けた武家社会では、子は親に逆ってはならないという孝や、関連する他の徳目から派生した夫に逆らわない嫁という夫婦関係も定着しました。朱子学は儒教だけでなく道教などの都合の良い部分を寄せ集めた総合学問であるため、その陰陽観も強く影響しているわけです。三つ指ついて夫を迎える妻、夫より三歩下がって歩く妻なども、おそらくこの頃からの慣習でしょう。つまり、平和な時代に合った武士像の模索が、皮肉にも副産物として男尊女卑的傾向を持ち込むことになったと言えます。

 しかし、平和な江戸期の庶民層においては概ね女性の地位は高く、流入する農家の二男三男たちによって男女比が偏っていたこともあり、100万都市・江戸においては妻の側から三下り半を突き付けて離婚が成立するほど女尊男卑とも言えるような状態でした。
    (続く)

No.118 115ヶ月前

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