(続き) では日本はどうでしょうか。歴史時代以前の縄文期の日本列島では、女性の地位はかなり高かった可能性があります。縄文期の祭祀に使われたとされる土偶は、女性を象ったものばかりが見つかっており、中には妊娠中の女性を象ったものもあり、これは当時の日本人が女性の生命を産み為す力を神聖なものとして捉えていたからだと思われます。 なお、これは女性に元々備わっている能力に対して男性が敬意を払っていることを表すものだと思われ、男性が女性に「こうあってほしい、こうあるべきだ」と迫るジェンダー的なものでないことは言うまでもありません。 縄文中期以降の人々の生活では、男性たちが狩猟や漁労に出かけ、女性たちが採集や原始的な農耕を行っていたはずです。なお一応ココにも注釈を入れておくと、これは男性の方が情報分析に適した脳機能を持ち、筋肉量も多く力仕事向きであるためだという能力的な役割分担でしかありません。 狩りや漁に出た時、天候や外敵など自分たちの身に迫る危険がどの程度のモノかを判断する場合や、自分が受けた傷が致命傷かどうかを判断する場合に、男性の情報分析に長けた脳は非常に役立ちます。個々に集められた情報はやがて経験則として蓄積され、知恵として伝承されていったものと思われます。 一方女性は感情を統合するのに適した脳機能を持ち、これは五感から受けた感情や印象に基づいて好悪を判断するものであるため、例えば男性たちが情報過多の中で互いの主張を譲らず、決断できない状況に陥った時、「アタシはこっちの方が好きだね」の一言で方針を決定できる場合が多いと思われます。その一言の当たる精度が非常に高い第六感に秀でた人物は、やがてカミに仕える巫女となっていったと思われます。 男女それぞれが獲得した収穫物はまずカミ様に供えられ、次の豊作や豊猟・豊漁を祈る祭祀が巫女となる女性たち主導で行われ、そして下げられた酒食は神人供食したのでしょう。 さて、縄文期の結婚形態は妻問婚であったと思われます。ムラでは男性が女性に妻問し(後の世の慣習を鑑みれば、これには女性に主導権・拒否権があったと思われます)、生まれた子は父親が特定できないという事情から、子供たちはムラの女性たちの手で育てられ、家系は必然的に女系となり、家の実権も女性が握ることになったと思われます。 前近代までは農村でも夜這いが普通に行われていたことが知られており、これは縄文以来の妻問い婚の名残だったと思われます。 そして、民法が整備された近代化以降の家庭は一夫一婦制が普通となりましたが、家の財布は妻が握っていることが多く、このことは実権が女性にあることを表しており、このあたりにも縄文の名残が見られます。 これらのことは、縄文期の日本列島に最も多く渡来帰化し、縄文人を構成する中心人種となったのがポリネシア人であるからだと考えられます。漁などをして暮らしていたであろう列島渡来前後のポリネシア人は、夫がいつ海で遭難するかも判らないため、妻をはじめとする女性が家の中心となっていたと考えられます。その結果でしょうが、現在のポリネシア人もバリバリの女系です。その文化を引き継いだ縄文以降の日本人も、庶民層においては室町期まで婿入り婚が普通だったとされるほど女系が浸透していたわけです。 (続く)
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(ID:16221355)
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では日本はどうでしょうか。歴史時代以前の縄文期の日本列島では、女性の地位はかなり高かった可能性があります。縄文期の祭祀に使われたとされる土偶は、女性を象ったものばかりが見つかっており、中には妊娠中の女性を象ったものもあり、これは当時の日本人が女性の生命を産み為す力を神聖なものとして捉えていたからだと思われます。
なお、これは女性に元々備わっている能力に対して男性が敬意を払っていることを表すものだと思われ、男性が女性に「こうあってほしい、こうあるべきだ」と迫るジェンダー的なものでないことは言うまでもありません。
縄文中期以降の人々の生活では、男性たちが狩猟や漁労に出かけ、女性たちが採集や原始的な農耕を行っていたはずです。なお一応ココにも注釈を入れておくと、これは男性の方が情報分析に適した脳機能を持ち、筋肉量も多く力仕事向きであるためだという能力的な役割分担でしかありません。
狩りや漁に出た時、天候や外敵など自分たちの身に迫る危険がどの程度のモノかを判断する場合や、自分が受けた傷が致命傷かどうかを判断する場合に、男性の情報分析に長けた脳は非常に役立ちます。個々に集められた情報はやがて経験則として蓄積され、知恵として伝承されていったものと思われます。
一方女性は感情を統合するのに適した脳機能を持ち、これは五感から受けた感情や印象に基づいて好悪を判断するものであるため、例えば男性たちが情報過多の中で互いの主張を譲らず、決断できない状況に陥った時、「アタシはこっちの方が好きだね」の一言で方針を決定できる場合が多いと思われます。その一言の当たる精度が非常に高い第六感に秀でた人物は、やがてカミに仕える巫女となっていったと思われます。
男女それぞれが獲得した収穫物はまずカミ様に供えられ、次の豊作や豊猟・豊漁を祈る祭祀が巫女となる女性たち主導で行われ、そして下げられた酒食は神人供食したのでしょう。
さて、縄文期の結婚形態は妻問婚であったと思われます。ムラでは男性が女性に妻問し(後の世の慣習を鑑みれば、これには女性に主導権・拒否権があったと思われます)、生まれた子は父親が特定できないという事情から、子供たちはムラの女性たちの手で育てられ、家系は必然的に女系となり、家の実権も女性が握ることになったと思われます。
前近代までは農村でも夜這いが普通に行われていたことが知られており、これは縄文以来の妻問い婚の名残だったと思われます。
そして、民法が整備された近代化以降の家庭は一夫一婦制が普通となりましたが、家の財布は妻が握っていることが多く、このことは実権が女性にあることを表しており、このあたりにも縄文の名残が見られます。
これらのことは、縄文期の日本列島に最も多く渡来帰化し、縄文人を構成する中心人種となったのがポリネシア人であるからだと考えられます。漁などをして暮らしていたであろう列島渡来前後のポリネシア人は、夫がいつ海で遭難するかも判らないため、妻をはじめとする女性が家の中心となっていたと考えられます。その結果でしょうが、現在のポリネシア人もバリバリの女系です。その文化を引き継いだ縄文以降の日本人も、庶民層においては室町期まで婿入り婚が普通だったとされるほど女系が浸透していたわけです。
(続く)