『縄文人に学ぶ』(上田篤)は非常に面白い本でしたが、非常に残念な作品でもありました。北の大陸からから樺太伝いに入ってきたのが縄文人の主体として書かれ、それが河川漁業、海洋漁業を習得し、日本全国に散っていったとしていたからです。そしてシナ大陸から水稲稲作技術を携えてきたのが天津神・天孫族で、それから弥生期が始まったのだろうとしている点もいただけません。しかし縄文人が母系社会だったことは著者の言うとおりだと思います。母系社会だから進歩が遅く競争もないというものその通りだと思います。 私は、北方シベリア・ツングース人(狩猟採集民・山人・シャンカ)と、南西諸島・沖縄伝いに入ってきたポリネシア人(漁労民・海人・アマ)がそれぞれ北と南から列島に侵入し、信州あたりで出会って徐々に混じりあい、それでも殺し合いなど起きず互いの文化は地域性を残したままだったと考えています。現代日本にも東日本と西日本の微妙な断絶があるのはこのためでしょう。 製塩技術や簡易農業(焼き畑による陸稲栽培を含む)技術などを持っていたポリネシア人の方が文化が進んでいたため、言語もポリネシア語を元にしたものが主に流通して日本語の原型となったはずです。一部のポリネシア語は母音の聞き分けが重要であり、それによって風音や川のせせらぎ音のような自然音・虫や鳥・動物の鳴き声・人間の感情音までを言語脳で意味あるモノと捉えることが出来るようになったわけです。世界中でほとんど滅びてしまったアニミズムが神道として生き残ったのは、この自然中でカミの声を聴ける能力のためでしょう。そこに南インド・タミル人が水稲栽培とそれにまつわる農業祭祀、機織り技術、57577の短詩形を伝え、日本神話に登場するおおよそのものが出揃いその原型が完成したと思われます。 著者によると、女系の血族社会では豊かな自然の中で女たちが採集や罠による漁などで食料を確保し、村で生まれた男は成長すると旅に出て別の血族社会に立ち寄り、そこで妻問い婚をしたそうです。当時はヒスイなどの宝石も交易されていましたから、それらを用いた地域性のある珍しい装飾品などをプレゼントしてOKをもらえたら和合し、そこで生まれた子供はその血族の村で育てられるわけです。男はこうして村から村へ旅し、老いて生殖能力が無くなり動けなくなったら「花のもとにて春死なん」と言ったかどうかは知りませんが、満足して死んだのかもしれません。また智恵と技術を村の若い後継者に伝える女は老女になっても尊敬を集めたでしょう。 しかし、こういう母系社会はむしろ海洋民であるポリネシア人のほうが成り立ちそうな気がします。漁労民の男たちは海へ漁に出ますが、船板一枚隔てた下は海というある意味死と隣り合わせであるため、いつ死んでも良いという覚悟は定まりそうです。また家を守る戸主は死の危険が多い男ではなく女になるのが自然です。ポリネシアから陸稲栽培が伝わって定住性が高まったであろう縄文中期でも、妻問い婚より婿入り婚が多くなりはしたでしょうが、女系の文化は続いたはずです。 タミル人が水稲栽培を伝えて農作業に男手が必須となるころから、男の地位が上がってきたと思われます。縄文から弥生への移行はこうした緩やかなものだったのではないでしょうか。しかし定住して保存食のコメを蓄えるようになるとやはり競争や争いが起こる可能性は出てきますが、女性が宗教的権威となり男性が政治の実務を執るヒメヒコ体制ならばその発生頻度はずっと減らせると思われます。つまり卑弥呼と王や沖縄の聞得大君と王の関係です。私はヤマトトトヒモモソヒメ=卑弥呼、親族の王=崇神天皇と考えています。で、ちょっと時代は離れますが台与=神功皇后かな?と。 婿入り婚は室町期まで続いたようです。当時のグローバリズムであるシナ男系主義によく抵抗し続けたものです。私の持論ですが、外国との交渉を絶った時こそ日本本来の国柄が強く出てくると考えています。菅原道真が遣唐使を廃止したのは平安中期です。そういえば平安貴族は歌を贈って妻問い婚みたいなことをしていました。宋との交易が盛んになる平安末期には武士が強くなり始め、男の力も増しました。そして世が乱れました。しかし戦国が終わり世の中が落ち着いて鎖国政策を執った江戸期は庶民層ではまたかかあ殿下の時代です。これは地域的な文化においても言えそうです。シナ大陸に近く外への守りが中央より意識されていた九州北部では男権が強いのはうなづけます。 というわけで、日本が女系母系社会となって子供を共同体の皆で育てる国柄に戻るには、外国との交渉の制限が必要になってくるように思うわけです。 食料と必需品の自給は天皇陛下の大御心にも適うでしょう na85
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『縄文人に学ぶ』(上田篤)は非常に面白い本でしたが、非常に残念な作品でもありました。北の大陸からから樺太伝いに入ってきたのが縄文人の主体として書かれ、それが河川漁業、海洋漁業を習得し、日本全国に散っていったとしていたからです。そしてシナ大陸から水稲稲作技術を携えてきたのが天津神・天孫族で、それから弥生期が始まったのだろうとしている点もいただけません。しかし縄文人が母系社会だったことは著者の言うとおりだと思います。母系社会だから進歩が遅く競争もないというものその通りだと思います。
私は、北方シベリア・ツングース人(狩猟採集民・山人・シャンカ)と、南西諸島・沖縄伝いに入ってきたポリネシア人(漁労民・海人・アマ)がそれぞれ北と南から列島に侵入し、信州あたりで出会って徐々に混じりあい、それでも殺し合いなど起きず互いの文化は地域性を残したままだったと考えています。現代日本にも東日本と西日本の微妙な断絶があるのはこのためでしょう。
製塩技術や簡易農業(焼き畑による陸稲栽培を含む)技術などを持っていたポリネシア人の方が文化が進んでいたため、言語もポリネシア語を元にしたものが主に流通して日本語の原型となったはずです。一部のポリネシア語は母音の聞き分けが重要であり、それによって風音や川のせせらぎ音のような自然音・虫や鳥・動物の鳴き声・人間の感情音までを言語脳で意味あるモノと捉えることが出来るようになったわけです。世界中でほとんど滅びてしまったアニミズムが神道として生き残ったのは、この自然中でカミの声を聴ける能力のためでしょう。そこに南インド・タミル人が水稲栽培とそれにまつわる農業祭祀、機織り技術、57577の短詩形を伝え、日本神話に登場するおおよそのものが出揃いその原型が完成したと思われます。
著者によると、女系の血族社会では豊かな自然の中で女たちが採集や罠による漁などで食料を確保し、村で生まれた男は成長すると旅に出て別の血族社会に立ち寄り、そこで妻問い婚をしたそうです。当時はヒスイなどの宝石も交易されていましたから、それらを用いた地域性のある珍しい装飾品などをプレゼントしてOKをもらえたら和合し、そこで生まれた子供はその血族の村で育てられるわけです。男はこうして村から村へ旅し、老いて生殖能力が無くなり動けなくなったら「花のもとにて春死なん」と言ったかどうかは知りませんが、満足して死んだのかもしれません。また智恵と技術を村の若い後継者に伝える女は老女になっても尊敬を集めたでしょう。
しかし、こういう母系社会はむしろ海洋民であるポリネシア人のほうが成り立ちそうな気がします。漁労民の男たちは海へ漁に出ますが、船板一枚隔てた下は海というある意味死と隣り合わせであるため、いつ死んでも良いという覚悟は定まりそうです。また家を守る戸主は死の危険が多い男ではなく女になるのが自然です。ポリネシアから陸稲栽培が伝わって定住性が高まったであろう縄文中期でも、妻問い婚より婿入り婚が多くなりはしたでしょうが、女系の文化は続いたはずです。
タミル人が水稲栽培を伝えて農作業に男手が必須となるころから、男の地位が上がってきたと思われます。縄文から弥生への移行はこうした緩やかなものだったのではないでしょうか。しかし定住して保存食のコメを蓄えるようになるとやはり競争や争いが起こる可能性は出てきますが、女性が宗教的権威となり男性が政治の実務を執るヒメヒコ体制ならばその発生頻度はずっと減らせると思われます。つまり卑弥呼と王や沖縄の聞得大君と王の関係です。私はヤマトトトヒモモソヒメ=卑弥呼、親族の王=崇神天皇と考えています。で、ちょっと時代は離れますが台与=神功皇后かな?と。
婿入り婚は室町期まで続いたようです。当時のグローバリズムであるシナ男系主義によく抵抗し続けたものです。私の持論ですが、外国との交渉を絶った時こそ日本本来の国柄が強く出てくると考えています。菅原道真が遣唐使を廃止したのは平安中期です。そういえば平安貴族は歌を贈って妻問い婚みたいなことをしていました。宋との交易が盛んになる平安末期には武士が強くなり始め、男の力も増しました。そして世が乱れました。しかし戦国が終わり世の中が落ち着いて鎖国政策を執った江戸期は庶民層ではまたかかあ殿下の時代です。これは地域的な文化においても言えそうです。シナ大陸に近く外への守りが中央より意識されていた九州北部では男権が強いのはうなづけます。
というわけで、日本が女系母系社会となって子供を共同体の皆で育てる国柄に戻るには、外国との交渉の制限が必要になってくるように思うわけです。
食料と必需品の自給は天皇陛下の大御心にも適うでしょう na85