岸端編集長、小林師範、時浦師範代、今週もライジングの配信お疲れ様です。 今週のライジングを読んで、真っ先に思い出したのが「わしズム」で小林師範が描いていた「卑怯者の島」に登場する矢我欣也少尉と少尉の妻、弥生でした。なぜなら、「風立ちぬ」に登場する二郎の妻、菜穂子も矢我少尉の妻、、弥生の妻も病状は違えど、不治の病に侵され、余命幾許もない人だったからです。ただし、「卑怯者の島」と「風立ちぬ」で決定的に違うのは、「卑怯者の島」では妻、弥生は矢賀少尉に結婚を申し込まれた時に、不治の病を理由に「心身壮健な欣也さんに相応しくない女なのです」といったん拒絶する一方で「風立ちぬ」の妻、菜穂子は自身の病を伏せて二郎の結婚申し込みをそのまま受け入れて結婚が成立する所にあります。さらに、「卑怯者の島」では、結婚申し込みを断る弥生に対して矢我少尉は「俺も必ず御国のために死ぬ男だ!これほど釣り合う夫婦はなかろう。死が二人の媒酌をしてくれる。」と答え、結婚が成立します。そして、「二人の間に子供もなく、時を得ずに二人とも死んでこの世には何も残らない。今、この瞬間の生をひっそりと輝かせて、あの世で再び寄り添うのだ。」という解説が流れるのです。そして、矢我少尉は遠い戦地で最期を迎える直前に矢我少尉の母に看取られながら病床にて、死を迎える弥生を見て、「一緒になれる」と涙を流しながら死を迎えます。 「風立ちぬ」のように一人が死に、一人が生きるのとは対照的で共に死ぬことで多くの読者に感動と衝撃を与えたことが読者感想文からも読み取れましたし、生命至上主義がまるだしの「風立ちぬ」よりもはるかに印象に残った場面であり、小林師範の力作の名場面でもあったと思いました。もし、「風立ちぬ」が宮崎駿が当初計画していた最終場面のまま上映されたら、「卑怯者の島」と同じく、だれも予想していなかった衝撃的な最終場面を見たことにより、多くの人々に今よりもはるかに話題を呼び、人気も今以上に合ったであろうと思います。なぜならば、思いもよらぬ登場人物の最期ほど、視聴者や読者の脳裏に衝撃を与え、深い印象と残すからなのです。しかし、残念なことに、私を含む多くの人々が小林師範以外に、従来の宮崎駿が提案していた「風立ちぬ」のような最期や零戦で戦うアニメや漫画作品を求めることはもはや不可能であり、宮崎駿にそれを求めること自体、酷であるという、自分にとって最も憎むべきである、一種のあきらめでもある虚無主義が、無意識の内に我々の心を支配していたのかもしれません。情けない話ですが。また、宮崎駿の思想からして小林師範の「戦争論」や「卑怯者の島」などの力作を書き上げる発想は浮かばないと思いますし、これまでの宮崎作品からして小林師範の期待するような作品を作ることを周囲の人々が許さないか、期待しないだろうということでもあります。要するに、「風立ちぬ」は宮崎駿の作品である以上、あの内容が限界であるという一種の妥協と諦めが蔓延っていたのではないのかと思います。それは我々部外者に止まらず、「風立ちぬ」の最期を書き換えた制作者からして宮崎駿に作品を作る自由度に対する足枷となっていったのかもしれません。宮崎駿が監督を引退したのも高齢もさることながら、「風立ちぬ」の最期に対する改変を含む、製作者や周囲が行う足枷に対して拭い去ることのできない一種の限界が来たからなのではないのかと思いますが如何でありましょう。 物語における予想だにしない登場人物の最期ほど、物語の価値を向上させる場面はないと、今回のライジングで感じました。これは「生」だけにとどめる「生命至上主義」ではなく、「生と死」が上手く混在し、時には予想だにしない「死」が物語を完結させる為の名場面となるのだという意味でもあります。 なお、今回の本意見で取り上げた「卑怯者の島」の場面の詳細は「わしズム vol.25 (わしズム 2008年 2/29号)」に書かれています。また、矢我少尉と弥生の最期も「わしズム vol.28 ( わしズム 2008年 11/29号)」に描かれていますのでご興味のある方はそちらを購入して見ていただけたらと思います。 時浦師範代の「wiki直し」ですが、「戦争論」から「天皇論」にかけてが本格的な直しになると予想されます。なぜなら、wikipediaの皇室関係は「天皇論」も含めて荒廃状態になっていて、とても見れたものではなく、さらには「戦争論」もまるで、カルトのような扱いだったのを覚えています。精神衛生上、見ていて毒だと思い、それっきりこれらの関係はえwikipediaでは見ていませんが、何卒、ご注意願います。 岸端編集長のライジングは来週は休みではありますが、HP解説や道場と色々とご多忙であったと思われますし、読者も熟考するために、時には二週間の空きが必要と思いますので、一週間のライジングの休みはむしろ、我々読者にとっても好機なのではと思います。なにとぞ、よしりん企画の無謀に振り回せずに次回のライジングのために鋭気を養っていただければと思います。 小林師範に「足枷」は不要。
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岸端編集長、小林師範、時浦師範代、今週もライジングの配信お疲れ様です。
今週のライジングを読んで、真っ先に思い出したのが「わしズム」で小林師範が描いていた「卑怯者の島」に登場する矢我欣也少尉と少尉の妻、弥生でした。なぜなら、「風立ちぬ」に登場する二郎の妻、菜穂子も矢我少尉の妻、、弥生の妻も病状は違えど、不治の病に侵され、余命幾許もない人だったからです。ただし、「卑怯者の島」と「風立ちぬ」で決定的に違うのは、「卑怯者の島」では妻、弥生は矢賀少尉に結婚を申し込まれた時に、不治の病を理由に「心身壮健な欣也さんに相応しくない女なのです」といったん拒絶する一方で「風立ちぬ」の妻、菜穂子は自身の病を伏せて二郎の結婚申し込みをそのまま受け入れて結婚が成立する所にあります。さらに、「卑怯者の島」では、結婚申し込みを断る弥生に対して矢我少尉は「俺も必ず御国のために死ぬ男だ!これほど釣り合う夫婦はなかろう。死が二人の媒酌をしてくれる。」と答え、結婚が成立します。そして、「二人の間に子供もなく、時を得ずに二人とも死んでこの世には何も残らない。今、この瞬間の生をひっそりと輝かせて、あの世で再び寄り添うのだ。」という解説が流れるのです。そして、矢我少尉は遠い戦地で最期を迎える直前に矢我少尉の母に看取られながら病床にて、死を迎える弥生を見て、「一緒になれる」と涙を流しながら死を迎えます。
「風立ちぬ」のように一人が死に、一人が生きるのとは対照的で共に死ぬことで多くの読者に感動と衝撃を与えたことが読者感想文からも読み取れましたし、生命至上主義がまるだしの「風立ちぬ」よりもはるかに印象に残った場面であり、小林師範の力作の名場面でもあったと思いました。もし、「風立ちぬ」が宮崎駿が当初計画していた最終場面のまま上映されたら、「卑怯者の島」と同じく、だれも予想していなかった衝撃的な最終場面を見たことにより、多くの人々に今よりもはるかに話題を呼び、人気も今以上に合ったであろうと思います。なぜならば、思いもよらぬ登場人物の最期ほど、視聴者や読者の脳裏に衝撃を与え、深い印象と残すからなのです。しかし、残念なことに、私を含む多くの人々が小林師範以外に、従来の宮崎駿が提案していた「風立ちぬ」のような最期や零戦で戦うアニメや漫画作品を求めることはもはや不可能であり、宮崎駿にそれを求めること自体、酷であるという、自分にとって最も憎むべきである、一種のあきらめでもある虚無主義が、無意識の内に我々の心を支配していたのかもしれません。情けない話ですが。また、宮崎駿の思想からして小林師範の「戦争論」や「卑怯者の島」などの力作を書き上げる発想は浮かばないと思いますし、これまでの宮崎作品からして小林師範の期待するような作品を作ることを周囲の人々が許さないか、期待しないだろうということでもあります。要するに、「風立ちぬ」は宮崎駿の作品である以上、あの内容が限界であるという一種の妥協と諦めが蔓延っていたのではないのかと思います。それは我々部外者に止まらず、「風立ちぬ」の最期を書き換えた制作者からして宮崎駿に作品を作る自由度に対する足枷となっていったのかもしれません。宮崎駿が監督を引退したのも高齢もさることながら、「風立ちぬ」の最期に対する改変を含む、製作者や周囲が行う足枷に対して拭い去ることのできない一種の限界が来たからなのではないのかと思いますが如何でありましょう。
物語における予想だにしない登場人物の最期ほど、物語の価値を向上させる場面はないと、今回のライジングで感じました。これは「生」だけにとどめる「生命至上主義」ではなく、「生と死」が上手く混在し、時には予想だにしない「死」が物語を完結させる為の名場面となるのだという意味でもあります。
なお、今回の本意見で取り上げた「卑怯者の島」の場面の詳細は「わしズム vol.25 (わしズム 2008年 2/29号)」に書かれています。また、矢我少尉と弥生の最期も「わしズム vol.28 ( わしズム 2008年 11/29号)」に描かれていますのでご興味のある方はそちらを購入して見ていただけたらと思います。
時浦師範代の「wiki直し」ですが、「戦争論」から「天皇論」にかけてが本格的な直しになると予想されます。なぜなら、wikipediaの皇室関係は「天皇論」も含めて荒廃状態になっていて、とても見れたものではなく、さらには「戦争論」もまるで、カルトのような扱いだったのを覚えています。精神衛生上、見ていて毒だと思い、それっきりこれらの関係はえwikipediaでは見ていませんが、何卒、ご注意願います。
岸端編集長のライジングは来週は休みではありますが、HP解説や道場と色々とご多忙であったと思われますし、読者も熟考するために、時には二週間の空きが必要と思いますので、一週間のライジングの休みはむしろ、我々読者にとっても好機なのではと思います。なにとぞ、よしりん企画の無謀に振り回せずに次回のライジングのために鋭気を養っていただければと思います。
小林師範に「足枷」は不要。