よしりん師範、時浦師範代、みなぼん編集長、スタッフの皆様、今週も執筆・編集・配信、ありがとうございます。来週は久しぶりのライジング休刊週です。ゆっくり休みつつ英気を養ってください。とくに公式サイトを完成させたみなぼんさん、よしりん師範の無茶振り的な誘いに気を付けてくださいね。 「映画『風立ちぬ』では、ゼロ戦を作る偏愛の虚しさと、結核患者を偏愛することの虚しさを、重ね合わせたかのように見える。」 「それでも『ピラミッドのある世界と、ない世界のどちらを選ぶか?』と問われれば、後悔があったとしてもピラミッドのある世界を選ばざるを得ない人間の業を描いたのかもしれない。」 見事です。この2文ほど『風立ちぬ』を端的に表した言葉はないと思います。第38回ゴー宣道場に参加した身としては今回の「ゴー宣」は至れり尽くせりの内容でした。道場では次々移り変わる話題に私の脳は追い付くのに必死でしたし、とくに堀辰夫によるヴァレリーの詩の反語訳の件が難解でしたので物凄くすっきりしました。 私は『風立ちぬ』を二度目に見たとき、菜穂子の最後の「生きて」がとても残酷な言葉だと思えてきたのです。二郎は最後がズタズタだったとは言え創造的人生の10年を十分に生き切り、また愛する菜穂子もとっくに鬼籍に入ってしまっていたため、後にはもう夢も希望もない抜け殻のような後半生が待っているだけなのです。宮崎駿氏は「子供たちにこの世は生きるに値するんだと言うことを伝えたかった」らしいですが、B29やエノラゲイは不問に付すくせに零戦は「暗黒時代の殺戮兵器だ」とのたまう御仁が溢れる戦後日本など、少なくとも二郎にとっては生きるに値しないでしょう。「菜穂子、優しさがあるなら二郎に介錯を!」と思ってしまいました。だから菜穂子は「もう十分よ。あなた、いっしょに来て」と言わなければならず、二郎は「そうだね」と応じるしかなく、カプローニは「逝く前に寄っていかないか…良いワインがあるんだ。君の10年に乾杯しよう!」とでも言えばすっきりできそうす。大人のアニメだと言うなら安易な生命至上主義・戦後全肯定に走らないでほしかったのですが、役目を終えてもまだまだ生きたい高齢者をも視聴者とせねば、少子高齢社会の日本では興業に響くであろうという理想と現実の二律背反が理由なのだろうと考えます。 「でも、お前…伝染るじゃないか、結核が」は道場でも爆笑しましたが、映画の初見でこれが全く頭をかすめなかったと言えばウソになります。でも、「いや限りない優しさを持つ純愛の二郎がそんなことを脳裏にも思うはずがない」と思い直して続きを見たのです。しかし当時の結核は不治の病であり、食べられない免疫力の無い貧窮者が多く罹る病気だとは言え、裕福な菜穂子ですらも罹ったのですから二郎や黒川とて安全ではありません。初見時はリスクを物ともしない二郎の愛と黒川夫妻の粋に感動していたのですが…よく考えると怖い話です。道場ではこの部分でよしりん師範の見解をかなり強硬に否定された高森師範や、このシーンを好意的に見ようとした私を始めとする男性視聴者は、よしりん師範からすると「軟弱」で「自己犠牲が好き」なのでしょうね。しかも菜穂子が最後に言った通りに「生きねば」と思うに至っては自己犠牲の極みでありドMでしょう。だとすれば宮崎氏の言う生きるに値する世界とは、男にとってはかなりツライもの(自分にとって生きるに値しない世になっても生きろ)になりそうです。そしてまた数々の女性が輝く作品を物してきた宮崎監督のことですから「男は黙って耐えろ」「使命を果たしつつ女をも支えろ」と言っているのかもしれません。それは女性が太陽であるという日本の(神話~古代の)国柄への無意識的な回帰なのかもしれません。 ところで菜穂子のいた高原病院の治療は「良い空気の中で安静にして栄養をつける」というものだと思われます。しかし、結核からの脊椎カリエスで亡くなった俳人・正岡子規は、「病床六尺」の記述によると狭い部屋で動きもしないのに常人の何倍もの食事を摂っていたそうです。医療ジャーナリスト・船瀬俊介の『日本の真相』によれば子規の死因は明らかに食べ過ぎだとしており、明治期に入ってきたフォイト栄養学と当時の西洋医学では結核には無効だったことが判ります。愛する夫の傍にいられたことによる充実感から免疫力も逆に高まったであろうことも考え合わせれば、菜穂子は黒川邸の離れにいた頃が最も病気を抑えこめていた時期であり、精神的も肉体的にも最も輝いていた時期ではなかったかと思われます。そして菜穂子は二郎の仕事の物理的な障害のように思えますが、精神的な支えにはなったはずであり、逆にそれなくしては零銭試作機の成功はなかったようにも思えます。その上セカチュー的な病弱薄幸恋愛話(病気で醜くなる時期は都合よくカット)とは一線を画し、美しくいられる間の自分だけを二郎に見せて去った菜穂子は非常に充実した人生を送った、自己実現をなした女性だと言うことができます。こんな『女性天皇の時代』の女帝たちにも一脈通じる強い女性に惹かれる男性という構図も日本の国柄だと言えるかもしれません。 さて、宮崎アニメ(トトロ・もののけ姫・千と千尋…)およびジブリアニメ(平成狸合戦・猫の恩返し…)にはカミガミや精霊が描かれている作品が多くあります。これは、人間と生きとし生けるもの・カミ・精霊とは周囲の豊かな自然の中で共に生き心の交流もある同胞だという世界観であり、西欧キリスト教(特にプロテスタント)の人間中心主義に毒されていない前近代の世界観だと思われます。共同体の中で人も生類も精霊も同胞として生きる日本人を明治期のお雇外人ベルツは「幸せな国民」だと評し、それを引いた渡辺京二氏は『逝きし世の面影』で「(前近代の日本は)生きるに値する世界だった」と述べました。しかし、近代以降の特にあらゆる共同体崩壊の危機に瀕する戦後日本においては、前近代のカミや精霊をも成員に含めた共同体世界を描き出すだけでは、宮崎駿氏の「この世は生きるに値するんだ」と伝える目的は単なる郷愁の確認作業に終わります。 『風立ちぬ』では最後に二郎を生き残らせましたが、菜穂子の見事な死への諦念と潔い態度が描かれていたと思います。黒川夫人も加代もそれに同様の諦念でもって応えました。『逝きし世の~』で渡辺氏は、日本人の家族や近しい者以外の病者・死者への冷淡をヒューマニズム(人間主義)の見地から論う外国人に対し、「やがて自分にも起こりうることへの諦念ゆえ」だと反論しています。つまりカミの怒りによっていつでも起こりうる災害や疫病による死への諦念は日本人が古来より受け継いできたエートスであり、宮崎氏の今作ではそこは押さえれているわけです。これでもしラストで菜穂子が「来て」と二郎を冥界に迎え入れたなら、時空を超えた心中物語となっていたでしょう。しかしこれは現代日本では、戦闘機を童心のままに活躍させるのと同じくらい受け入れ難いことなのかもしれません。 イランイスラム革命ならぬ日本エド革命を起こしたい na85
チャンネルに入会
フォロー
小林よしのりチャンネル
(ID:16221355)
よしりん師範、時浦師範代、みなぼん編集長、スタッフの皆様、今週も執筆・編集・配信、ありがとうございます。来週は久しぶりのライジング休刊週です。ゆっくり休みつつ英気を養ってください。とくに公式サイトを完成させたみなぼんさん、よしりん師範の無茶振り的な誘いに気を付けてくださいね。
「映画『風立ちぬ』では、ゼロ戦を作る偏愛の虚しさと、結核患者を偏愛することの虚しさを、重ね合わせたかのように見える。」
「それでも『ピラミッドのある世界と、ない世界のどちらを選ぶか?』と問われれば、後悔があったとしてもピラミッドのある世界を選ばざるを得ない人間の業を描いたのかもしれない。」
見事です。この2文ほど『風立ちぬ』を端的に表した言葉はないと思います。第38回ゴー宣道場に参加した身としては今回の「ゴー宣」は至れり尽くせりの内容でした。道場では次々移り変わる話題に私の脳は追い付くのに必死でしたし、とくに堀辰夫によるヴァレリーの詩の反語訳の件が難解でしたので物凄くすっきりしました。
私は『風立ちぬ』を二度目に見たとき、菜穂子の最後の「生きて」がとても残酷な言葉だと思えてきたのです。二郎は最後がズタズタだったとは言え創造的人生の10年を十分に生き切り、また愛する菜穂子もとっくに鬼籍に入ってしまっていたため、後にはもう夢も希望もない抜け殻のような後半生が待っているだけなのです。宮崎駿氏は「子供たちにこの世は生きるに値するんだと言うことを伝えたかった」らしいですが、B29やエノラゲイは不問に付すくせに零戦は「暗黒時代の殺戮兵器だ」とのたまう御仁が溢れる戦後日本など、少なくとも二郎にとっては生きるに値しないでしょう。「菜穂子、優しさがあるなら二郎に介錯を!」と思ってしまいました。だから菜穂子は「もう十分よ。あなた、いっしょに来て」と言わなければならず、二郎は「そうだね」と応じるしかなく、カプローニは「逝く前に寄っていかないか…良いワインがあるんだ。君の10年に乾杯しよう!」とでも言えばすっきりできそうす。大人のアニメだと言うなら安易な生命至上主義・戦後全肯定に走らないでほしかったのですが、役目を終えてもまだまだ生きたい高齢者をも視聴者とせねば、少子高齢社会の日本では興業に響くであろうという理想と現実の二律背反が理由なのだろうと考えます。
「でも、お前…伝染るじゃないか、結核が」は道場でも爆笑しましたが、映画の初見でこれが全く頭をかすめなかったと言えばウソになります。でも、「いや限りない優しさを持つ純愛の二郎がそんなことを脳裏にも思うはずがない」と思い直して続きを見たのです。しかし当時の結核は不治の病であり、食べられない免疫力の無い貧窮者が多く罹る病気だとは言え、裕福な菜穂子ですらも罹ったのですから二郎や黒川とて安全ではありません。初見時はリスクを物ともしない二郎の愛と黒川夫妻の粋に感動していたのですが…よく考えると怖い話です。道場ではこの部分でよしりん師範の見解をかなり強硬に否定された高森師範や、このシーンを好意的に見ようとした私を始めとする男性視聴者は、よしりん師範からすると「軟弱」で「自己犠牲が好き」なのでしょうね。しかも菜穂子が最後に言った通りに「生きねば」と思うに至っては自己犠牲の極みでありドMでしょう。だとすれば宮崎氏の言う生きるに値する世界とは、男にとってはかなりツライもの(自分にとって生きるに値しない世になっても生きろ)になりそうです。そしてまた数々の女性が輝く作品を物してきた宮崎監督のことですから「男は黙って耐えろ」「使命を果たしつつ女をも支えろ」と言っているのかもしれません。それは女性が太陽であるという日本の(神話~古代の)国柄への無意識的な回帰なのかもしれません。
ところで菜穂子のいた高原病院の治療は「良い空気の中で安静にして栄養をつける」というものだと思われます。しかし、結核からの脊椎カリエスで亡くなった俳人・正岡子規は、「病床六尺」の記述によると狭い部屋で動きもしないのに常人の何倍もの食事を摂っていたそうです。医療ジャーナリスト・船瀬俊介の『日本の真相』によれば子規の死因は明らかに食べ過ぎだとしており、明治期に入ってきたフォイト栄養学と当時の西洋医学では結核には無効だったことが判ります。愛する夫の傍にいられたことによる充実感から免疫力も逆に高まったであろうことも考え合わせれば、菜穂子は黒川邸の離れにいた頃が最も病気を抑えこめていた時期であり、精神的も肉体的にも最も輝いていた時期ではなかったかと思われます。そして菜穂子は二郎の仕事の物理的な障害のように思えますが、精神的な支えにはなったはずであり、逆にそれなくしては零銭試作機の成功はなかったようにも思えます。その上セカチュー的な病弱薄幸恋愛話(病気で醜くなる時期は都合よくカット)とは一線を画し、美しくいられる間の自分だけを二郎に見せて去った菜穂子は非常に充実した人生を送った、自己実現をなした女性だと言うことができます。こんな『女性天皇の時代』の女帝たちにも一脈通じる強い女性に惹かれる男性という構図も日本の国柄だと言えるかもしれません。
さて、宮崎アニメ(トトロ・もののけ姫・千と千尋…)およびジブリアニメ(平成狸合戦・猫の恩返し…)にはカミガミや精霊が描かれている作品が多くあります。これは、人間と生きとし生けるもの・カミ・精霊とは周囲の豊かな自然の中で共に生き心の交流もある同胞だという世界観であり、西欧キリスト教(特にプロテスタント)の人間中心主義に毒されていない前近代の世界観だと思われます。共同体の中で人も生類も精霊も同胞として生きる日本人を明治期のお雇外人ベルツは「幸せな国民」だと評し、それを引いた渡辺京二氏は『逝きし世の面影』で「(前近代の日本は)生きるに値する世界だった」と述べました。しかし、近代以降の特にあらゆる共同体崩壊の危機に瀕する戦後日本においては、前近代のカミや精霊をも成員に含めた共同体世界を描き出すだけでは、宮崎駿氏の「この世は生きるに値するんだ」と伝える目的は単なる郷愁の確認作業に終わります。
『風立ちぬ』では最後に二郎を生き残らせましたが、菜穂子の見事な死への諦念と潔い態度が描かれていたと思います。黒川夫人も加代もそれに同様の諦念でもって応えました。『逝きし世の~』で渡辺氏は、日本人の家族や近しい者以外の病者・死者への冷淡をヒューマニズム(人間主義)の見地から論う外国人に対し、「やがて自分にも起こりうることへの諦念ゆえ」だと反論しています。つまりカミの怒りによっていつでも起こりうる災害や疫病による死への諦念は日本人が古来より受け継いできたエートスであり、宮崎氏の今作ではそこは押さえれているわけです。これでもしラストで菜穂子が「来て」と二郎を冥界に迎え入れたなら、時空を超えた心中物語となっていたでしょう。しかしこれは現代日本では、戦闘機を童心のままに活躍させるのと同じくらい受け入れ難いことなのかもしれません。
イランイスラム革命ならぬ日本エド革命を起こしたい na85