na85 のコメント

 よしりん師範の「うどん」に関するブログ記事だけを切っ掛けにここまで食文化の論議が展開されるとは。
 甲信越フォッサマグナあたりを境に東西日本で食を始めとする様々な文化の断絶があるように思います。これは縄文期における日本人の成り立ちに原因があるように思います。海面が上がり大陸から切り離されて列島が形成されて以後、バイカル湖から東のシベリアにいたアルタイ語を話すツングース人が北日本から流入し、太平洋ポリネシアからポリネシア語を話すポリネシア人が東南アジアを経由して南西日本から流入しました。これが甲信越地方で出会い数万年かけて混じり合ったのが縄文人だと思われます。北方縄文人は大陸人なので北海道・東北から信州までの山地で狩猟採集をして暮らす山人となり、これらの地域には現在もマタギの文化として名残があります。南方縄文人は海洋民なので瀬戸内を中心とする低地に住んで漁や製塩をして暮らす海人となり、現在の日本文化の基層は主に海人文化が担っていると思われます。縄文後期の三内丸山遺跡(青森県)では、漁(真鯛・鰤・鯖・平目・河豚など)と農耕=植物栽培(マメ・ゴボウ・エゴマ・ヒョウタン・クリなど)、他地域との交易(ヒスイ・黒曜石など)が盛んであり、狩猟はシカ・イノシシといった大型哺乳類より野兎のような小動物が多く、イノシシを家畜化して飼育まで行っていたようです。東北地方の他の遺跡では熱帯アジア原産の陸稲(水田を必要としない湿地に撒く稲)の栽培も確実視されています。つまり縄文後期には東北の沿岸では海人文化が中心になっていたことが判ります。しかし東西縄文人は完全に混じらず食の好みなどの文化に若干の違いが残ったため東西で断絶があるように感じるのでしょう。おそらく縄文期の集落から続く地域の特色は風土記にも記述がありますが、江戸期の幕藩体制でより強く定着したように思います。文化は戦乱期には平準化・平板化・浅薄化し、平和期には細分化・深化する傾向があるため、最も平和な江戸期に地域の特色がより強く現われるのは当然でしょう。

 開国以来ずっと戦乱期の日本で文化の深化は望めない? na85

No.343 134ヶ月前

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