90年代の初頭に思春期を迎えた私にとっては、アイドルに嵌ることに何 かしらの抵抗を感じ、グラビアアイドルの方が身近な存在だったのですが、 小林よしのりという切っ掛けがあったとはいえ、いままでアイドルに嵌った ことがない私がなぜメディアを通してしか接しないのにAKBに熱くなって しまうのかについて考えてみました。 AKB48が従来のアイドルと大きく違っているのは、アイドルを目指すこ とによって物語を作っているのではないかということです。それはただ単 に、山口百恵や松田聖子のように物語を演じることが出来るアイドルがいな くなり、物語を生み出すことが出来る作り手達が去ってしまったからなの か、それともこれだけ情報が氾濫した世の中ではアイドルの神秘性すら暴か れてしまう時代だから、時代そのものがアイドルが存在することを許さなく なってしまったのか、どちらかはわかりませんが、そのような時代にAKB4 8は誕生した。AKB48の物語は今までのような一方通行の物語の受け手とし てではなく、アイドルを目指す彼女達を応援することによって応援する側 も物語に参加することになり、彼女達と物語を共有することが出来るのでは ないでしょうか。それが従来のアイドルとは違うAKBの魅力の一つであ り、ネットの発達した現代にあって、ツィッターやブログなどで自ら意見を 発信出来るような時代においては、そのような時代性に適っているのでは。 そしてその物語こそが日本人の心性に適うのではないでしょか。AKBを 例える話として高校野球が出てきますが、以前から疑問に思っていたのが、 なぜプロ野球というより完成された存在がありながら、人々がそれよりも技 術が劣る高校野球に対して何の価値を見出だして熱くなれるのか。それは 技術が未完であってもそれを補う一生懸命さやひたむきさに、最高の技術と 技術がぶつかり合うプロフェッショナルな勝負だけを絶対的な価値とするの ではなく、そこに多様な価値を日本人は見付け出すのではないでしょうか。 それはカワイイと感じる感性と同じように欧米にはない、さらにはアジアに もない、日本人だけが感じ取ることが出来る感覚ではないでしょか。だから こそ、少女達が坂の上の雲を目指して夢中で駆け上がる姿には日本人なら誰 でも思わず推したくなるのでは。 何時の世も少年・少女は夢を追いかける。それが世の常です。少女達が夢 中で坂の上の雲を目指す姿は美しいのですが、よしりん先生が仰る通り、 坂を駆け上がった成熟しきった大人達が、さらにその向こうに幻想を追い求 める姿には、後ろを振り返って坂の下に広がる景色に目を向けろと言ってや りたくなります。 もちろん彼女達は自己実現のために一生懸命にがんばっていて、何かを得 るためには犠牲を払わねばならないのは当然なのですが、聖なる存在として のアイドルの宿命としてアイドルで在るがための代償の大きさとアイドルの 存在によって救われた人々の多さを考えると、世の中に罪があって罰がある のならば、彼女達が払ってきた犠牲に見合うだけの報いがあってもいいので はないかと、駆け上がった坂の上が思い描いた場所ではなっかたとしても、 AKBで得たものを糧に次の道に向かって歩みだして、幸せな人生を送って 欲しいと老婆心ながら、そう思ってしまいます。 中森明夫氏が以前、「美空ひばりは死んで、キャンデーズは引退して伝説 になったたけれど、前田敦子は死ぬことも引退することもなく伝説になっ た」と仰っていたのですが、なぜ前田敦子は死ぬことも引退することもなく 伝説になったのか。それは彼女がAKB48のセンターとして、全力で駆け上 がり、真っ先に坂の上に立ったから伝説になったのではないでしょうか。秋 元康というとてつもない才能を持ったプロフェッショナルによって成り立っ ている、がAKB48とは少女達が坂の上の雲を目指して夢中で駆け上がる姿 を手に汗握りながら見守る物語なのでは。
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(ID:17935414)
90年代の初頭に思春期を迎えた私にとっては、アイドルに嵌ることに何
かしらの抵抗を感じ、グラビアアイドルの方が身近な存在だったのですが、
小林よしのりという切っ掛けがあったとはいえ、いままでアイドルに嵌った
ことがない私がなぜメディアを通してしか接しないのにAKBに熱くなって
しまうのかについて考えてみました。
AKB48が従来のアイドルと大きく違っているのは、アイドルを目指すこ
とによって物語を作っているのではないかということです。それはただ単
に、山口百恵や松田聖子のように物語を演じることが出来るアイドルがいな
くなり、物語を生み出すことが出来る作り手達が去ってしまったからなの
か、それともこれだけ情報が氾濫した世の中ではアイドルの神秘性すら暴か
れてしまう時代だから、時代そのものがアイドルが存在することを許さなく
なってしまったのか、どちらかはわかりませんが、そのような時代にAKB4
8は誕生した。AKB48の物語は今までのような一方通行の物語の受け手とし
てではなく、アイドルを目指す彼女達を応援することによって応援する側
も物語に参加することになり、彼女達と物語を共有することが出来るのでは
ないでしょうか。それが従来のアイドルとは違うAKBの魅力の一つであ
り、ネットの発達した現代にあって、ツィッターやブログなどで自ら意見を
発信出来るような時代においては、そのような時代性に適っているのでは。
そしてその物語こそが日本人の心性に適うのではないでしょか。AKBを
例える話として高校野球が出てきますが、以前から疑問に思っていたのが、
なぜプロ野球というより完成された存在がありながら、人々がそれよりも技
術が劣る高校野球に対して何の価値を見出だして熱くなれるのか。それは
技術が未完であってもそれを補う一生懸命さやひたむきさに、最高の技術と
技術がぶつかり合うプロフェッショナルな勝負だけを絶対的な価値とするの
ではなく、そこに多様な価値を日本人は見付け出すのではないでしょうか。
それはカワイイと感じる感性と同じように欧米にはない、さらにはアジアに
もない、日本人だけが感じ取ることが出来る感覚ではないでしょか。だから
こそ、少女達が坂の上の雲を目指して夢中で駆け上がる姿には日本人なら誰
でも思わず推したくなるのでは。
何時の世も少年・少女は夢を追いかける。それが世の常です。少女達が夢
中で坂の上の雲を目指す姿は美しいのですが、よしりん先生が仰る通り、
坂を駆け上がった成熟しきった大人達が、さらにその向こうに幻想を追い求
める姿には、後ろを振り返って坂の下に広がる景色に目を向けろと言ってや
りたくなります。
もちろん彼女達は自己実現のために一生懸命にがんばっていて、何かを得
るためには犠牲を払わねばならないのは当然なのですが、聖なる存在として
のアイドルの宿命としてアイドルで在るがための代償の大きさとアイドルの
存在によって救われた人々の多さを考えると、世の中に罪があって罰がある
のならば、彼女達が払ってきた犠牲に見合うだけの報いがあってもいいので
はないかと、駆け上がった坂の上が思い描いた場所ではなっかたとしても、
AKBで得たものを糧に次の道に向かって歩みだして、幸せな人生を送って
欲しいと老婆心ながら、そう思ってしまいます。
中森明夫氏が以前、「美空ひばりは死んで、キャンデーズは引退して伝説
になったたけれど、前田敦子は死ぬことも引退することもなく伝説になっ
た」と仰っていたのですが、なぜ前田敦子は死ぬことも引退することもなく
伝説になったのか。それは彼女がAKB48のセンターとして、全力で駆け上
がり、真っ先に坂の上に立ったから伝説になったのではないでしょうか。秋
元康というとてつもない才能を持ったプロフェッショナルによって成り立っ
ている、がAKB48とは少女達が坂の上の雲を目指して夢中で駆け上がる姿
を手に汗握りながら見守る物語なのでは。