(○"○)(○○;)(´○○`)(〇〇)9 学校教育に難癖つけといて何ですが、昔学校の教科書で読んだ覚えがあるのは、 欧米の価値観では、光の当たる「タテマエ」と、影の部分の「ホンネ」は対立するものという考え方だけれど、 日本人は裏の裏は表というように、表の顔も裏の顔も、同じその人の顔なんだと考えるものなのだと。🎭 『日本人論』第1章12頁、「ジャニー喜多川氏の少年愛とショービジネスの才能は表裏一体で決して切り離せない。クリエイターの不条理だ!」 まさにこれに通じる話ですな。 いわば、チェブリン・モン子氏の素顔はどうであれ、 我々はチェブリン・モン子氏のあの明るいキャラクターをただ楽しんでいればいいんだ、ということですな。 「チェブリン・モン子」というペルソナもまた、彼女の本質であり、彼女の真実なのだから。'`,、(´∀`) '`,、 光も闇も表裏一体、不可分なもの。 舞台を楽しむのに、裏方や黒子やプロンプターが見えたとしても、 普通それを見なかったことにして劇を観賞するもの、というような。 実際はただロープで吊り上げているだけのことでも、あれは空を飛んでいるんだと、 そんなロープはそりゃ見えるけれど、本当に空を飛んでいるものとして劇を楽しむもの。 あはは!ロープで吊ってんじゃん!インチキヒーローだ!とか、声に出したらいかんと、 そういうことかと。🦸♂️🦹♀️🧚♀️ そういえば、以前倉持先生が「芸能界は人権の飛び地」と仰有ったのを聞いて、私は何か名称し難い違和感を覚えたのですが、 あれも要は、芸能界に闇があるのなんて当たり前の話じゃん。「人権の飛び地」だなんて皇室じゃあるまいし、「大したことじゃない」と、 私にもいつの頃からか、そういう日本の歴史を背負った日本人としての感覚があったということだったのですな。 子供の頃、『あっぱれさんま大先生』という番組をよく観てまして、 あそこに出てた子供たち、私とほぼ同年代ですが、確かに個性的で面白いんだけど、どこか奇妙な感じ、普通じゃないミステリアスな感じがあったのを覚えています。 それが、覗いてはいけない闇の部分ということだったのかも? その闇の部分があって、あの子達はあの教室でスポットライトの光に当たっているんだと。 光と闇は表裏一体、闇の部分もまた本質を成すものなのだから、みだりに覗かない方がいいし、除かない方がいいものなのだと。🎛๛(゚´Д`゚)゚。オソマツデス。。。 「漫画には色んな人生訓が描かれている」ということですが、 あの『まんが日本昔ばなし』にあったかどうか、定かではございませんが、 思い浮かぶのは、誰もが知る『鶴の恩返し』。 似たような話に、『パンドラの箱』や『金の卵』がありますが、 『パンドラの箱』は好奇心から、『金の卵』は欲望から軽率に闇を暴こうとしてしまったわけだけれど、 『鶴の恩返し』は、見事な反物を織ってくれるおつうがどんどんやつれていくのが心配になって、覗いてしまって・・・。チナミニ 『ツルノオンガエシ』…(ʘ‿ʘ*)オペラモアリマスノヨ… しかし、「人権」を掲げて弱者に寄り添おうというポーズだけで、心配とかそんなのは全然なし! 当然、芸能界の闇なんて大したことないなんて感覚も無し! というか、闇の部分に光を照らしゃ大した儲けになるぜ~♪という、まるで墓荒らしのような、 ただ弱者をツルハシのように利用して闇を暴き、大衆の好奇心・覗き趣味を刺激して儲けようという欲望・私心のみ! それが週刊文春と。 ところで、メディア自身の検証では、芸能事務所に忖度してスルーしていた、これが不味かったと、そういう分析でしたが、 よく考えましたら、あれはメディアの芸能事務所に対するメッセージということだったのではないか?と。 メディアがタレントを起用するために芸能事務所にへーコラしていたというのは、確かにあったのでしょう。クツトカ…ꉂꉂゞ(ᵔဗᵔ*)オケツマデペロント? けれど、今回の件を期に、芸能事務所に忖度すると事務所のヤバいところまで見て見ぬふりしてしまうから、もう金輪際忖度なんかしませんよと。 そんなことしたら、今回の件でもう世間が黙ってないんだからと。 我々に圧力をかける?何か隠していると、大衆に暴露してやるぞ!と、 人権の御旗によって、我々メディアは、芸能事務所に従う側から従わせる立場になったんだぞ! 人権バンザイ!わっはっは!ザマーミロ!これまでよくも散々偉そうにしてくれたな! これからは震えて眠るがいい!ひゃっはっは!というような。 ……何というか、謝ったら死ぬ病のメディアが自己検証なんて、違和感ありまくりなもので……。クセイ!クセイ!🪐(⌯¤̴̶̷̀″Ψ¤̴̶̷́)🛸ギワクノワクセイ…… (|||Д|||)(💥Д💥)(💭Д💭)(💤Д💤)(🌸Д🌸)イロイロ タマッテタンダナア…ト ワレナガラ……🪠 ハイドンによって確立され、モーツァルト、ベートーヴェンと、如何にも理知的に作られた、絶対音楽の王道であった「交響曲」、 しかし、1830年に初演されたフランスの作曲家エクトル・ベルリオーズの『幻想交響曲』は、 論理のみで展開していく「交響曲」に、文学的な物語を融合させた、当時としては画期的な交響曲でした。 これって、フランス革命の後に起こったその「理性カルト」の、これまた反発から生まれたもの? …と考えると、面白いかな~♪と。 ベルリオーズといえば、 16台のティンパニとか、東西南北のブラスバンドが十字砲火するとか、 とにかく巨大な『レクイエム』を作曲したことでも知られる作曲家。 ところで、倉持先生は「週刊文春へのレクイエム」とか書いてましたが、 レクイエムというのは、死者の安息を祈るミサ曲なわけで、 週刊文春のような悪党、腐れ外道、無法者に対して、安らぎなんか要るか? 要るのは地獄の責め苦じゃないの?と。👿……✡️Ψ(。″。;)Ψシカルベキムクイヲ アタエタマエ~!ミタイナ そういう甘っちょろい腑抜けたところを見せたら、足を掬われてしまうぞ……と思ったものの、 ちょっとよく考え直してみました。 中国で、よく共産党によって芸能人とか失踪させられたり人民のバッシングの対象にされたりとかって、よく聞く話。 それによって、人民が共産党に対して反乱を起こしたりしないようガス抜きをするみたいな。 日本政府は、そんなことはできない。 だから週刊文春が代わって・・・ いや、別に陰謀論とかを言いたいわけではなく、 申し上げたいのは、嫉妬深い大衆がその破壊願望を満たすために週刊文春を望むなら、 文春砲を、成功者の破滅を、キャンセル・カルチャーを望むなら、 例え今回週刊文春を滅ぼしたとしても、後に第2第3の週刊文春が現れるだけなのではないか?と。 まさに、理性をGODにすげ替えただけみたいなことに……。 あの時週刊文春をボロクソに糾弾したけれど、 結局何だったの?ということにならないか?と。 これもフランス革命と同じく、どんどんギロチンにかけて、最終的には・・・みたいな話に? だから思いますのは、結局は大衆が、日本人自体が変わらなければ何にもならないのではないかと。 「レクイエム」というのは、ベルリオーズに限らず、基本的に合唱曲。『シンフォニア·ダ·レクイエム』…(๑° ꒳ °๑)…『ゲンガクノタメノレクイエム』ナンテノモアルケド… それこそ日本人が皆で「週刊文春に永遠の安息を…」と歌えるようになれるのかどうか。 私としては、大衆が崇めて鵜呑みにするマスコミ、 そのマスコミがウラも取らんと拝み倒して鵜呑みにする週刊文春、 この実に馬鹿馬鹿しい権威主義の構造を根底からひっくり返すような議論を望んでおります。🏳🐛ꔛ୧( ᐖ)σ.。.:*🦋🇯🇵 男系固執の編集者の容赦ないいちゃもんによって、 よしりん先生は古代の皇位の女系継承について、もはや神品というべき妥協なき説得力をもったあの一本を描かれましたが、 その一方、同じ男系固執派ということで散々甘やかしたがために、あんな読みづらいったらないめちゃくちゃな文章を、どや!参ったか!と披露して、 皆様からこてんぱんにされる、暗い山に満つる厚顔無恥なただの糞餓鬼……。ワタクシメノ ブンショウリョクモ…๛(˘・з・˘)༘エラソウニイエタモンデモナイケドネ……👽 同じことでしょう。 大衆もマスコミも、文春砲とか言って喝采しまくるから、馬鹿が自惚れてつけあがるんだと。 そうして現した馬脚に、脚払いをかけてすっ転がしてフルボッコちゃん!と。 そこに、マスコミ大衆がキャンセルしていたはずの「ゴー宣DOJO」が、 本物の圧倒的権威として日本を保守すべく君臨・鎮座したらいいと!キタキタキタキタアアアアッッ!!!💯✰⋆。о(°▽゜)9:゚・*☽ミナミナミナミナ ミニコイヨオオオオッッ!!!🧭 そんなまるで小林よしのり先生らしからぬバトル漫画的展開にするには、さあどうしたらいいか? そんな議論にまで到達できるのかどうか? そうでなければ!そうでなければ!そうでなければ! そうでなければ・・・・ もう終わりですかね、日本は。。。。〰️💣️💥🗾
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学校教育に難癖つけといて何ですが、昔学校の教科書で読んだ覚えがあるのは、
欧米の価値観では、光の当たる「タテマエ」と、影の部分の「ホンネ」は対立するものという考え方だけれど、
日本人は裏の裏は表というように、表の顔も裏の顔も、同じその人の顔なんだと考えるものなのだと。🎭
『日本人論』第1章12頁、「ジャニー喜多川氏の少年愛とショービジネスの才能は表裏一体で決して切り離せない。クリエイターの不条理だ!」
まさにこれに通じる話ですな。
いわば、チェブリン・モン子氏の素顔はどうであれ、
我々はチェブリン・モン子氏のあの明るいキャラクターをただ楽しんでいればいいんだ、ということですな。
「チェブリン・モン子」というペルソナもまた、彼女の本質であり、彼女の真実なのだから。'`,、(´∀`) '`,、
光も闇も表裏一体、不可分なもの。
舞台を楽しむのに、裏方や黒子やプロンプターが見えたとしても、
普通それを見なかったことにして劇を観賞するもの、というような。
実際はただロープで吊り上げているだけのことでも、あれは空を飛んでいるんだと、
そんなロープはそりゃ見えるけれど、本当に空を飛んでいるものとして劇を楽しむもの。
あはは!ロープで吊ってんじゃん!インチキヒーローだ!とか、声に出したらいかんと、
そういうことかと。🦸♂️🦹♀️🧚♀️
そういえば、以前倉持先生が「芸能界は人権の飛び地」と仰有ったのを聞いて、私は何か名称し難い違和感を覚えたのですが、
あれも要は、芸能界に闇があるのなんて当たり前の話じゃん。「人権の飛び地」だなんて皇室じゃあるまいし、「大したことじゃない」と、
私にもいつの頃からか、そういう日本の歴史を背負った日本人としての感覚があったということだったのですな。
子供の頃、『あっぱれさんま大先生』という番組をよく観てまして、
あそこに出てた子供たち、私とほぼ同年代ですが、確かに個性的で面白いんだけど、どこか奇妙な感じ、普通じゃないミステリアスな感じがあったのを覚えています。
それが、覗いてはいけない闇の部分ということだったのかも?
その闇の部分があって、あの子達はあの教室でスポットライトの光に当たっているんだと。
光と闇は表裏一体、闇の部分もまた本質を成すものなのだから、みだりに覗かない方がいいし、除かない方がいいものなのだと。🎛๛(゚´Д`゚)゚。オソマツデス。。。
「漫画には色んな人生訓が描かれている」ということですが、
あの『まんが日本昔ばなし』にあったかどうか、定かではございませんが、
思い浮かぶのは、誰もが知る『鶴の恩返し』。
似たような話に、『パンドラの箱』や『金の卵』がありますが、
『パンドラの箱』は好奇心から、『金の卵』は欲望から軽率に闇を暴こうとしてしまったわけだけれど、
『鶴の恩返し』は、見事な反物を織ってくれるおつうがどんどんやつれていくのが心配になって、覗いてしまって・・・。チナミニ 『ツルノオンガエシ』…(ʘ‿ʘ*)オペラモアリマスノヨ…
しかし、「人権」を掲げて弱者に寄り添おうというポーズだけで、心配とかそんなのは全然なし!
当然、芸能界の闇なんて大したことないなんて感覚も無し!
というか、闇の部分に光を照らしゃ大した儲けになるぜ~♪という、まるで墓荒らしのような、
ただ弱者をツルハシのように利用して闇を暴き、大衆の好奇心・覗き趣味を刺激して儲けようという欲望・私心のみ!
それが週刊文春と。
ところで、メディア自身の検証では、芸能事務所に忖度してスルーしていた、これが不味かったと、そういう分析でしたが、
よく考えましたら、あれはメディアの芸能事務所に対するメッセージということだったのではないか?と。
メディアがタレントを起用するために芸能事務所にへーコラしていたというのは、確かにあったのでしょう。クツトカ…ꉂꉂゞ(ᵔဗᵔ*)オケツマデペロント?
けれど、今回の件を期に、芸能事務所に忖度すると事務所のヤバいところまで見て見ぬふりしてしまうから、もう金輪際忖度なんかしませんよと。
そんなことしたら、今回の件でもう世間が黙ってないんだからと。
我々に圧力をかける?何か隠していると、大衆に暴露してやるぞ!と、
人権の御旗によって、我々メディアは、芸能事務所に従う側から従わせる立場になったんだぞ!
人権バンザイ!わっはっは!ザマーミロ!これまでよくも散々偉そうにしてくれたな!
これからは震えて眠るがいい!ひゃっはっは!というような。
……何というか、謝ったら死ぬ病のメディアが自己検証なんて、違和感ありまくりなもので……。クセイ!クセイ!🪐(⌯¤̴̶̷̀″Ψ¤̴̶̷́)🛸ギワクノワクセイ……
(|||Д|||)(💥Д💥)(💭Д💭)(💤Д💤)(🌸Д🌸)イロイロ タマッテタンダナア…ト ワレナガラ……🪠
ハイドンによって確立され、モーツァルト、ベートーヴェンと、如何にも理知的に作られた、絶対音楽の王道であった「交響曲」、
しかし、1830年に初演されたフランスの作曲家エクトル・ベルリオーズの『幻想交響曲』は、
論理のみで展開していく「交響曲」に、文学的な物語を融合させた、当時としては画期的な交響曲でした。
これって、フランス革命の後に起こったその「理性カルト」の、これまた反発から生まれたもの?
…と考えると、面白いかな~♪と。
ベルリオーズといえば、
16台のティンパニとか、東西南北のブラスバンドが十字砲火するとか、
とにかく巨大な『レクイエム』を作曲したことでも知られる作曲家。
ところで、倉持先生は「週刊文春へのレクイエム」とか書いてましたが、
レクイエムというのは、死者の安息を祈るミサ曲なわけで、
週刊文春のような悪党、腐れ外道、無法者に対して、安らぎなんか要るか?
要るのは地獄の責め苦じゃないの?と。👿……✡️Ψ(。″。;)Ψシカルベキムクイヲ アタエタマエ~!ミタイナ
そういう甘っちょろい腑抜けたところを見せたら、足を掬われてしまうぞ……と思ったものの、
ちょっとよく考え直してみました。
中国で、よく共産党によって芸能人とか失踪させられたり人民のバッシングの対象にされたりとかって、よく聞く話。
それによって、人民が共産党に対して反乱を起こしたりしないようガス抜きをするみたいな。
日本政府は、そんなことはできない。
だから週刊文春が代わって・・・
いや、別に陰謀論とかを言いたいわけではなく、
申し上げたいのは、嫉妬深い大衆がその破壊願望を満たすために週刊文春を望むなら、
文春砲を、成功者の破滅を、キャンセル・カルチャーを望むなら、
例え今回週刊文春を滅ぼしたとしても、後に第2第3の週刊文春が現れるだけなのではないか?と。
まさに、理性をGODにすげ替えただけみたいなことに……。
あの時週刊文春をボロクソに糾弾したけれど、
結局何だったの?ということにならないか?と。
これもフランス革命と同じく、どんどんギロチンにかけて、最終的には・・・みたいな話に?
だから思いますのは、結局は大衆が、日本人自体が変わらなければ何にもならないのではないかと。
「レクイエム」というのは、ベルリオーズに限らず、基本的に合唱曲。『シンフォニア·ダ·レクイエム』…(๑° ꒳ °๑)…『ゲンガクノタメノレクイエム』ナンテノモアルケド…
それこそ日本人が皆で「週刊文春に永遠の安息を…」と歌えるようになれるのかどうか。
私としては、大衆が崇めて鵜呑みにするマスコミ、
そのマスコミがウラも取らんと拝み倒して鵜呑みにする週刊文春、
この実に馬鹿馬鹿しい権威主義の構造を根底からひっくり返すような議論を望んでおります。🏳🐛ꔛ୧( ᐖ)σ.。.:*🦋🇯🇵
男系固執の編集者の容赦ないいちゃもんによって、
よしりん先生は古代の皇位の女系継承について、もはや神品というべき妥協なき説得力をもったあの一本を描かれましたが、
その一方、同じ男系固執派ということで散々甘やかしたがために、あんな読みづらいったらないめちゃくちゃな文章を、どや!参ったか!と披露して、
皆様からこてんぱんにされる、暗い山に満つる厚顔無恥なただの糞餓鬼……。ワタクシメノ ブンショウリョクモ…๛(˘・з・˘)༘エラソウニイエタモンデモナイケドネ……👽
同じことでしょう。
大衆もマスコミも、文春砲とか言って喝采しまくるから、馬鹿が自惚れてつけあがるんだと。
そうして現した馬脚に、脚払いをかけてすっ転がしてフルボッコちゃん!と。
そこに、マスコミ大衆がキャンセルしていたはずの「ゴー宣DOJO」が、
本物の圧倒的権威として日本を保守すべく君臨・鎮座したらいいと!キタキタキタキタアアアアッッ!!!💯✰⋆。о(°▽゜)9:゚・*☽ミナミナミナミナ ミニコイヨオオオオッッ!!!🧭
そんなまるで小林よしのり先生らしからぬバトル漫画的展開にするには、さあどうしたらいいか?
そんな議論にまで到達できるのかどうか?
そうでなければ!そうでなければ!そうでなければ!
そうでなければ・・・・
もう終わりですかね、日本は。。。。〰️💣️💥🗾