希蝶 のコメント

 遅ればせながら、まいこさんのゴー宣ジャーナリスト、「光る君へ」と読む「源氏物語」第一回を拝読しました。

 桐壺更衣のいまはの際の歌、現代語訳も57577になっていて、新鮮でした。とてもうまい意訳だな、と。最後まで生きようとした姿勢は、それこそTARAKOさんみたいな感じもします。

 少し補足。「いか」というのは「行か」と「生か」の掛詞で両方の意味。つまり、桐壺更衣さんが行きたいと思っている、あるいは生きたいと願っている、というような意味。あと、私の所有している本では、「悲しき」になっています。「まほし」とは「たし(たい)」と同じ意味で、「あらまほし」(あって欲しい→望ましい、理想的な)という形容詞に痕跡が残っています。
 帝と桐壺更衣の恋は身分格差のある禁断の恋みたいなもので、桐壺(淑景舎、しげいしゃ)は内裏の中でも天皇の住まわす清涼殿にもっとも離れた場所にあり、清涼殿と隣り合っている弘徽殿に比べて「雲泥の差」の待遇だったみたいです。おまけに、更衣の場合、父親は既に死去、母親の北の方のみ存命で、右大臣(光る君でしたら、かつて藤原兼家がそうだった)にあたる弘徽殿女御の実家よりもハンディキャップの大きい立場だった…わけです。
 それだけ更衣は、弘徽殿女御を含む後宮の女性たちの嫉妬の渦の対象となった、というわけなのでしょう。だから心勞も大きかったわけで…気の毒です。

 あと「高麗の人相見」(高麗人〔こまうど〕のかしこき相人〔そうにん〕)なのですが、これは「朝鮮半島の人の人相見」ではなく、「渤海の人相見」になるそうです。この時代、宇多天皇が醍醐天皇に与えた『寬平御遺誡』(かんぴょうのごゆいかい)というのがあり、その中に宮中で外国人に直接会ってはならないというきまりがあって(寛平9年、西暦898年)(そのために、源氏は皇族の身分を隠し、右大弁の息子という名目で、鴻臚館へ出向いて占ってもらった)、
 菅原道真が遣唐使の廃止を建議したのがその3年前、
 そして、唐滅亡907年、渤海(ぼっかい)滅亡926年、高麗(こうらい)建国918年、新羅滅亡935年なので、
 時期的に高麗人(こうらいじん)の来日とは考えにくいわけです(『源氏物語』本文には「宇多帝」という語が登場します)。

 実は一般に「高句麗(こうくり)」という名前で学習される朝鮮半島の三国時代の国家は、のちに「高麗」と国号を改めており、(『日本書紀』によると)「髙麗(こま)」と呼ばれていたそうです。新羅を併合し、統一王朝を建国した方の「高麗」も、もともとは「後高句麗」で、あやかって命名された国号らしいです。
 そして…『続日本紀』には渤海のことを藤原仲麻呂などが「髙麗」と呼んでいる箇所が存在し、日本の律令国家が「渤海」を「高句麗(髙麗)」の後継国家として認識していたことが分かります(『続紀』の別の箇所では「渤海」とも記述されています)
 つまり、この「高麗人」は満州人、あるいは朝鮮半島北部の人というような感じになります。
…なんてことは、別にどうでもいいのか…。要は大陸の北部の人、みたいな認識でよいのかも。「參れる中に」(来朝した中に)という条件さえなければ、唐に滅ぼされ、亡国の民となった(旧)高句麗、髙麗(こま)の人なのかも…。
 そして、第一皇子の方が皇位継承で優先されたのは…直系の論理からしても妥当だったのでは。実際の日本の皇室は、それでもめるのですから(持明院統と大覚寺統など)。

 ちょっとつまらない知ったかぶりをしてみましたが…源氏もかなり悲惨な境遇だったのかな。三歳で母親を、祖母も六歳でなくなり、高麗人の相人との面会の件でも…苦労しているわけですから。
 ちなみに、「光源氏」というあだなは、(人相見かどうかは知りませんが)高麗人が名づけた、とあります。そして、元服し、左大臣家の婿になっているのだから…『光る君へ』の藤原道長の立場ともクロスしているわけです。

 …長くなってきたので、一休みします。つづき(第二回)はまた改めて。

No.148 6ヶ月前

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