前号、および今号のSPA!について。 実を言うと、「自分の視点で皇室を見る愚」ははまりやすい陥穽ではないか、という気がします。山口なんちゃらの辯護をするわけではないので、念のため、 「西遊記」の始まりは、石猿として誕生した孫悟空が、斉天大聖を名乗り、天界で暴れ、お釈迦様と勝負をし、敗北して背中から山に押しつぶされるという場面なのですが、 釈迦は悟空に、「自分の手のひらから拔け出せたら、お前を認める」といい、悟空はその勝負を受け、觔斗雲で抜けだし、世界の果てに辿り着き、「斉天大聖」と5本ある柱の一つに筆で書いたのですが…実は、釈迦の中指だった…というような話です(ご存じのかたがいたら、すみませんでした…) この話の元は(多分)仏教の講話みたいなものではないか、と浅学な自分は調べてもいないのですが、「人間が知覚できる世界は自分の視野範囲のみで、その先にひろがるものを認識することができない。できたとしても、それは想像でしかない」、さらに「思い込みほど恐ろしいものはない」ということではないか、ということを表現しているように(自分には)感じられます。 ただ、そのことを智識としても、失敗による経験としても知ることは、ひとりよがりによる判断を避けやすくし、「世の中には自分とは異なる考え方や人生経験、生活環境で育った人間がいる」という事実を知り得る結果になると思います。 朝ドラの「ブギウギ」では、スズ子の娘の「愛子」(という名前なんですが)の上級生が。父親ともども愛子の誕生会に出席し、その父親が「世の中にはこんな豊かな暮らしをしている家庭があるのか」と、愛子誘拐をたくらむのですが、結局露顕し、愛子誘拐未遂で逮捕されるという物語を描いていました。 世の中には、自分の想像を越えた世界がある、という好例ではないか、と思います。 私自身も、自分の意見を人におしつけるな、お前の意見が正しいと思ったら、大間違いだ、と言われても来ましたし、コロナのことでもそのように言われてきました。そのように言われつつ、かなり…あやまちを繰り返して来たと思っています。 その典型的な例として…自分が告白した相手が自分を避けるのが不思議でたまらず、「貴方は逃げている」と言ったりもしたんですね。向こうは立腹しました「なぜ、あなたからそんなことを言われなければならないのよ」。 自分の感覚としては、感情を態度に出すのは危ない、というメッセージのつもりでしたが…誰かに思いをうちあけるということが、どれだけ相手に大きな影響を与えるか、自覚だにしていなかった、何も言わなければ「勇気がない」と笑われたり、情けないとか言われたりする。じゃあ、気になったかも知れない相手がいたら、告白をしなければいけない、エチケットに反するとなる。なのに、なぜそんな「気まづい結果」になるのか…混乱してわけが分からなくなった。 …そんなようなことを語ったところで、「いいわけ」としか向こうはうつらないのかも、です。告白にはよい面もあれば悪い面もある。情況と相手により次第だ。レイプの話と似ているかも知れないです。 …先日の「歌謡曲を通して日本を語る」にかこつけて、恥を語ってみました。客観性とか、相手の立場に立つとかいうことは、「自分のそれまで生きてきた経験」のみで判断してはいけない、それこそ、孫悟空のようにお釈迦様の手のひらからも拔け出せなくなるから。 長々と記しましたが、どのような生活環境、また、一般における常識があったとしても、高貴な世界は(天界のような)特殊な世界に近いものがあり、確かに人間の本性が抑圧されているのかも、と想像することも可能ですが、ビスマルクの名言を借りると、「愚者は経験に学ぶ」みたいな話で、「賢者」として、皇室がどのようにして生まれ、どんな「歴史」にさらされ、現代までつづいてきたか、を知ることをしないといけないのでは、と思います。 現在放映中の「光る君へ」のように、天皇が強制退位されるような陰謀もあったのかも知れないし、壬申の乱・長屋王の変、橘奈良麻呂や藤原仲麻呂の乱のようなことや、道鏡の宇佐八幡宮神託みたいな権力争いもたびたびありました。しかし、それでも、承久の乱や南北朝、応仁の乱以降においてすら存続してきたのは、日本人の多数の素朴な「信仰」があり、それに見合うだけの権威を長い年月をかけて形成してきたのかな、と言えるように思えます。 天皇しか「氏」というファーストネームと「姓」(かばね)と呼ばれる称号を授与できないというのも、一般の人間とは別の空間にいるという証拠でしょう。氏はのちに自称の苗字になりますが、それでも明治時代まで公的な場で大切にされてきましたし、称号としての「姓」は使われなくなりましたが、同じく公的な場では残ってきたのですから…。それらを与える存在は、与えられる側と対等・同等の思考回路だけではない、という想像も…歴史を学ぶ上で、皇室とは何なのかを理解する上で必要なのではないか、と思います。 そう思うと…アラブやヨーロッパでさえ、複数の姓や、洗礼名などがあるのだから…明治時代に氏と苗字を一緒にし、通称と正式な名乗りのどちらかを選択させたたのは…良かったことだったのでしょうか?落語にも、寿限無みたいな話もあるのですから。 以上です。長々と、つまらない話でした。<(_ _)>
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前号、および今号のSPA!について。
実を言うと、「自分の視点で皇室を見る愚」ははまりやすい陥穽ではないか、という気がします。山口なんちゃらの辯護をするわけではないので、念のため、
「西遊記」の始まりは、石猿として誕生した孫悟空が、斉天大聖を名乗り、天界で暴れ、お釈迦様と勝負をし、敗北して背中から山に押しつぶされるという場面なのですが、
釈迦は悟空に、「自分の手のひらから拔け出せたら、お前を認める」といい、悟空はその勝負を受け、觔斗雲で抜けだし、世界の果てに辿り着き、「斉天大聖」と5本ある柱の一つに筆で書いたのですが…実は、釈迦の中指だった…というような話です(ご存じのかたがいたら、すみませんでした…)
この話の元は(多分)仏教の講話みたいなものではないか、と浅学な自分は調べてもいないのですが、「人間が知覚できる世界は自分の視野範囲のみで、その先にひろがるものを認識することができない。できたとしても、それは想像でしかない」、さらに「思い込みほど恐ろしいものはない」ということではないか、ということを表現しているように(自分には)感じられます。
ただ、そのことを智識としても、失敗による経験としても知ることは、ひとりよがりによる判断を避けやすくし、「世の中には自分とは異なる考え方や人生経験、生活環境で育った人間がいる」という事実を知り得る結果になると思います。
朝ドラの「ブギウギ」では、スズ子の娘の「愛子」(という名前なんですが)の上級生が。父親ともども愛子の誕生会に出席し、その父親が「世の中にはこんな豊かな暮らしをしている家庭があるのか」と、愛子誘拐をたくらむのですが、結局露顕し、愛子誘拐未遂で逮捕されるという物語を描いていました。
世の中には、自分の想像を越えた世界がある、という好例ではないか、と思います。
私自身も、自分の意見を人におしつけるな、お前の意見が正しいと思ったら、大間違いだ、と言われても来ましたし、コロナのことでもそのように言われてきました。そのように言われつつ、かなり…あやまちを繰り返して来たと思っています。
その典型的な例として…自分が告白した相手が自分を避けるのが不思議でたまらず、「貴方は逃げている」と言ったりもしたんですね。向こうは立腹しました「なぜ、あなたからそんなことを言われなければならないのよ」。
自分の感覚としては、感情を態度に出すのは危ない、というメッセージのつもりでしたが…誰かに思いをうちあけるということが、どれだけ相手に大きな影響を与えるか、自覚だにしていなかった、何も言わなければ「勇気がない」と笑われたり、情けないとか言われたりする。じゃあ、気になったかも知れない相手がいたら、告白をしなければいけない、エチケットに反するとなる。なのに、なぜそんな「気まづい結果」になるのか…混乱してわけが分からなくなった。
…そんなようなことを語ったところで、「いいわけ」としか向こうはうつらないのかも、です。告白にはよい面もあれば悪い面もある。情況と相手により次第だ。レイプの話と似ているかも知れないです。
…先日の「歌謡曲を通して日本を語る」にかこつけて、恥を語ってみました。客観性とか、相手の立場に立つとかいうことは、「自分のそれまで生きてきた経験」のみで判断してはいけない、それこそ、孫悟空のようにお釈迦様の手のひらからも拔け出せなくなるから。
長々と記しましたが、どのような生活環境、また、一般における常識があったとしても、高貴な世界は(天界のような)特殊な世界に近いものがあり、確かに人間の本性が抑圧されているのかも、と想像することも可能ですが、ビスマルクの名言を借りると、「愚者は経験に学ぶ」みたいな話で、「賢者」として、皇室がどのようにして生まれ、どんな「歴史」にさらされ、現代までつづいてきたか、を知ることをしないといけないのでは、と思います。
現在放映中の「光る君へ」のように、天皇が強制退位されるような陰謀もあったのかも知れないし、壬申の乱・長屋王の変、橘奈良麻呂や藤原仲麻呂の乱のようなことや、道鏡の宇佐八幡宮神託みたいな権力争いもたびたびありました。しかし、それでも、承久の乱や南北朝、応仁の乱以降においてすら存続してきたのは、日本人の多数の素朴な「信仰」があり、それに見合うだけの権威を長い年月をかけて形成してきたのかな、と言えるように思えます。
天皇しか「氏」というファーストネームと「姓」(かばね)と呼ばれる称号を授与できないというのも、一般の人間とは別の空間にいるという証拠でしょう。氏はのちに自称の苗字になりますが、それでも明治時代まで公的な場で大切にされてきましたし、称号としての「姓」は使われなくなりましたが、同じく公的な場では残ってきたのですから…。それらを与える存在は、与えられる側と対等・同等の思考回路だけではない、という想像も…歴史を学ぶ上で、皇室とは何なのかを理解する上で必要なのではないか、と思います。
そう思うと…アラブやヨーロッパでさえ、複数の姓や、洗礼名などがあるのだから…明治時代に氏と苗字を一緒にし、通称と正式な名乗りのどちらかを選択させたたのは…良かったことだったのでしょうか?落語にも、寿限無みたいな話もあるのですから。
以上です。長々と、つまらない話でした。<(_ _)>