だふね のコメント

私は幸い、「堕胎」したことはありません。独身の頃に一度だけ「しまった」と青ざめたことがありますが、杞憂に過ぎませんでした。軽はずみな行動が、思いがけない事態を招く危険性。それを学べたので、意味のないことではなかったと言えます。

望まない妊娠。その恐怖は、他の状況では味わえない特有のもの。女性だけが味わう苦しみ。もし、強いられた行為の挙句であれば地獄だし、まったくの自己都合でそうなったのだとしてもどれほど後悔することか。男にとっては、過失を責められ続けても「本能」がうんざりするだけで、絶対にわからない感覚です。しかし、そこは諦観しなければならないでしょう。

愛し合う者同士、たとえお互いが一心同体であるかのような感覚を抱いたとしても、現実は甘くありません。男と女はというよりも、人はそれぞれが違う生き物。なかなか理解し合えないのは当然のこと。残酷な事実ですが、そこから逃げるわけにもいきません。

無責任な触れ合いが招く結果を、男女のどちらかが想像できれば良いのですが、理屈どおりにいかずにすれ違ってしまうのが常です。これからも悲劇はなくならないだろうし、だからこそ堕胎罪も空文化している。ならばせめて、我々が目を背けずに考えるしかありません。人が人を「産む」、あるいは「殺す」とは何かを。

子どもの誕生は、例外なく親の都合によります。堕胎も同じく。存在を拒むか泣く泣く諦めるか、いずれにせよ親のエゴで、胎児とも呼べない段階で葬られる人たちがいる。エゴを「人の権利」と言い換えたとしても、人命を奪うことに変わりはない。奪った方は一生十字架を背負うことになる。

権利で人の心は縛れないし、権利に守られたところで安らぎは得られない。いっそ割り切ることができたら、どれほど良いか。そう簡単にはできないから苦しい。将来的に何らかの報いを受けるという漠然とした不安もあるでしょう。それでも人は、生きていかなければならない。

人の心は覗けないし、本人がどれほどの傷を抱えているかは傍目にわからない。他人にうわべだけの懺悔を強いたところで過去は変えられないのに、一方的な正義を振りかざして人の傷口を抉り、罪人であるかのように扱おうとする人たちは、何様のつもりなのか。

素朴な正義感であれば、まだ存在する意義はある。ただ、それが怪物のように肥大して偏り、個人や組織に寄生するようになると厄介ですね。その人たちはこれからも、人間の「不条理」や「業」というものから目を背け、他人の他愛のない行状を糾弾し続けることで、処罰感情を満たそうと躍起になるのでしょうか。

No.279 9ヶ月前

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