偏見ということで、少し考えたことがあるので、記します(エドマンド・バーク、岩波で捜したのですが、見つからなかった…)。 よく私たちは「何かをしなくてもよい」という言い方をします。私はこれを「する必要がないけれども、場合によってはやる場合もある」という意味にとらえていました。 どうも、世間では「してはならない」の婉曲表現だったりする場合が多いらしいのです(いうまでもないことなのでしょうか?)。 私は「そういう言い方では分からないので、はっきりと『するな』と言ってください」ということもあります。すると、「こういうことをしないでくれると嬉しいな」あるいは「こういうことをしてはダメだよ、ではいけないかな」となったりします。 つまり、そこには日本流の「気配り」とか「思いやりなどがあるのでしょう。英語でも両者の表現は異なり、「don`t have to」と「must not」になりますが、恐らく同様のケースもあるのかも知れないです。 そこにある「暗黙の諒解」みたいなものは(場所と情況によるのでしょうが)個人の判断、すなわち「理性」だと私が最初に示したような解釈になり、経験とほかの人間の常識の積み重ねみたいなものが加わると(大多数の場合)「婉曲表現」となってしまうのかな、と。 しかし…ゆき過ぎてしまうと、コロナ自粛のような、法律を越えた縛りにもなってしまうわけですし、 それに「おまえなんかになぜそんなことを言わないといけないんだ」みたいに言う人もいるわけで…。さらに、従軍慰安婦の話で登場するような、詐話師、詐欺師のような人は本当のことを言うわけはないですから、「他者の好意」をあてにするという結果にもなりかねない。 個の判断がもたらす弊害は、森鴎外の脚気の話にもあうように、「みづからを過信・権威化すること」からも生まれるのだろう。 人間って、やはりひとりでは生きてはいないのだろう、ハードボイルドの探偵がみづからを縛る規範にしても、恐らくバーク氏がいうような「偏見」のようなものもあるのだろう。 というようなことを考えてみたのですが…的外れでしたら、すみません。 なお、バーグという人は、息子に先立たれているようですね。何だか気の毒です。
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小林よしのりチャンネル
(ID:22136524)
偏見ということで、少し考えたことがあるので、記します(エドマンド・バーク、岩波で捜したのですが、見つからなかった…)。
よく私たちは「何かをしなくてもよい」という言い方をします。私はこれを「する必要がないけれども、場合によってはやる場合もある」という意味にとらえていました。
どうも、世間では「してはならない」の婉曲表現だったりする場合が多いらしいのです(いうまでもないことなのでしょうか?)。
私は「そういう言い方では分からないので、はっきりと『するな』と言ってください」ということもあります。すると、「こういうことをしないでくれると嬉しいな」あるいは「こういうことをしてはダメだよ、ではいけないかな」となったりします。
つまり、そこには日本流の「気配り」とか「思いやりなどがあるのでしょう。英語でも両者の表現は異なり、「don`t have to」と「must not」になりますが、恐らく同様のケースもあるのかも知れないです。
そこにある「暗黙の諒解」みたいなものは(場所と情況によるのでしょうが)個人の判断、すなわち「理性」だと私が最初に示したような解釈になり、経験とほかの人間の常識の積み重ねみたいなものが加わると(大多数の場合)「婉曲表現」となってしまうのかな、と。
しかし…ゆき過ぎてしまうと、コロナ自粛のような、法律を越えた縛りにもなってしまうわけですし、
それに「おまえなんかになぜそんなことを言わないといけないんだ」みたいに言う人もいるわけで…。さらに、従軍慰安婦の話で登場するような、詐話師、詐欺師のような人は本当のことを言うわけはないですから、「他者の好意」をあてにするという結果にもなりかねない。
個の判断がもたらす弊害は、森鴎外の脚気の話にもあうように、「みづからを過信・権威化すること」からも生まれるのだろう。
人間って、やはりひとりでは生きてはいないのだろう、ハードボイルドの探偵がみづからを縛る規範にしても、恐らくバーク氏がいうような「偏見」のようなものもあるのだろう。
というようなことを考えてみたのですが…的外れでしたら、すみません。
なお、バーグという人は、息子に先立たれているようですね。何だか気の毒です。