また感想とは別の、闇落ちみたいなことを記します。 先日、とある知人が、ある人と自分との会話の間に割り込んできて、 「坂本龍馬は司馬遼太郎が拾い上げるまでは無名の人間だった。つまり、〇〇さん(その場にいる人も)数十年後には、有名人だとか宗教家みたいな感じで歴史に名を残す人間になるかもしれないよ」 というようなことを申していました。あまりの暴言に、私は、 「坂本龍馬は明治時代には、明治天皇の夢枕に立ち、日露戦争の勝利を予言したという軍神だったんだよ」(史実。そう言われている) というようなことをつけ加えました。つまり、無名人が歴史に残るわけがない、かりに板垣退助とか後藤象二郎とか、海援隊の志士たちがあとで坂本の名前をひろめたとしても、それは幕末における坂本の行動があり、その成果を(司馬遼太郎の紹介があるにせよ)万人が認めたからではないか、と(後藤のことはその人も言っていましたが)。 なお、この発言をした人に、「陸奥宗光が坂本龍馬の弟子だったことは知っていますか?」(『大東亜論』を読んだかただったら、ご存じですよね。作者は異なるけれども、「陸奥」圓明流の『修羅の刻』とかいう漫画とかでもそういうことが描かれています。見ていないけれども、大河ドラマ『龍馬伝』あたりにも多分あったはず)。 という話をしたら、それは初耳だったようです。 (他者の評価をしてはならないのだけれども)この人は、ほかの人の話を「おちょくる」のが好きなようです。しかし、勤勉で、面倒見がよく、自分のような「口だけ番長」ではなく、現実主義者(現状委任派)、上司への受けもいいので、信頼される、交際範囲がひろい、となるわけです。 私は、こういうのを「郷原(その地域での人気者)は徳の賊なり」(論語の言葉)とか思ったりするのですが…負け惜しみかな? 関係ないけれども、三浦瑠麗さんの件などで、こんなことを思いました。つまり、要領の良い人間って、どんな事態でもうまく対処する場合もある、と。 それこそ、今度こそ、「天網恢々疎にして漏らさず」となるのでしょうか?「コロナ論」での先生への意見の同調を見ていると、立ち廻りをうまく演じてしまうような気もする。 私もその知人の不幸や天罰をのぞんでいるわけではありません。ただ、「コロナ論を貸してあげようか?」と言われて、「こういうのに影響されてはいけないから」とか言って、断るのは認めます。しかし、その後、何の調査もなく、偏見で「反ワクチンで不当に金を稼いでいるやつもいる」「コロナじゃ儲けられないから、皇室の問題にシフトしたんだろ?」と言い切ったり、「××さん(私のこと)は最近、医学のことにもはまっているんだよね?」「サージカルマスクの件も小林よしのりの指示なんだろう?」と言ってしまえる神経が、本当に頭に来てたまらない。せめて、こちらの言い分も聞いた上で、どちらが妥当と思えるのか、という判断はして欲しいとも思うし、そういうことができないようなら、意見を差し控えて、無関心でもいいのではないか、と。 「おぼっちゃまくん」については、「がきデカと似たようなところがあるよ」という意見を私が言ったところ、「漫画の系譜としてはそうなんじゃないの?」と言ってごまかしているのだけれど、「ゴーマニズム宣言」といっしょくたにし、「小林よしのりの作品だから」というような評価をしています。「戦争論を読んで、頭の良い人だとは思ったよ」というふうな発言もしていました。その言い方も、ある種の憎しみ、あるいは軽蔑(自分へのか?)が籠もっているようでした。 それとも、世間一般の人が抱く「ゴーマニズム宣言」の印象は、そんなものなのでしょうか?どうして、「この部分はこう、あの部分はどうかな?、ひょっとしたらどれもただしいのか?」「場合によっては思い違いもあるかな?」みたいな評価をできないのか? そんなに人間性(あるいは大多数の目にうつる人間像)とか、その人の人格、あるいは能力とかは、意見や思想と混同されてしまうものなのか?(また話をもどすけれども)コロナウイルスにおける三浦瑠麗さんの意見も、その部分では、よしりん先生と共通するものがある、というだけでしょう。ただ背景や立場が異なるから、「呉越同舟」の部分もあるのだとは言えるのだけれども。 もしも、自分がすぐれた人格の人間で、陰キャラではなく、仕事実践能力、同じミスを何度もしないような人間だったら、とか思ったりするのです。コロナやワクチンの話も、もっと耳にして貰えたのかな? 以上、やはり愚痴っぽい話になりました。あるいは、みなさんも、コロナやワクチンのことなどでこういう思いをしているのだろうと思うし、皇室問題やウクライナ戦争でも同様のことが起きているのかも知れないです。「あなたのおっしゃっていることは学校のお勉強だ、天然ガスは世界の死活問題だ」「そんなことよりも仕事をしろ」「はやく寝て、ナルコレプシーを起こさないようにせよ」というふうに。 どうしたら、思想の面も、実生活における活動の面も両立できるのか、さらに個人的な夢も。そんなところです。 上述のようにも申しましたが、三浦瑠麗さんの不正の件は多分そうなるでしょう。権力におべっかを使って痛い目を見るやからとか、あるいはおちょくりをしているようでいて、一般論に沿ったことしか言わないやからとか…相応の報いがあるのかな? つれづれなるままに、心にうつりゆく由無しごとを、そこはかとなく書き付けてみました…。そろそろ遊んでいないで、感想などをまとめます。
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また感想とは別の、闇落ちみたいなことを記します。
先日、とある知人が、ある人と自分との会話の間に割り込んできて、
「坂本龍馬は司馬遼太郎が拾い上げるまでは無名の人間だった。つまり、〇〇さん(その場にいる人も)数十年後には、有名人だとか宗教家みたいな感じで歴史に名を残す人間になるかもしれないよ」
というようなことを申していました。あまりの暴言に、私は、
「坂本龍馬は明治時代には、明治天皇の夢枕に立ち、日露戦争の勝利を予言したという軍神だったんだよ」(史実。そう言われている)
というようなことをつけ加えました。つまり、無名人が歴史に残るわけがない、かりに板垣退助とか後藤象二郎とか、海援隊の志士たちがあとで坂本の名前をひろめたとしても、それは幕末における坂本の行動があり、その成果を(司馬遼太郎の紹介があるにせよ)万人が認めたからではないか、と(後藤のことはその人も言っていましたが)。
なお、この発言をした人に、「陸奥宗光が坂本龍馬の弟子だったことは知っていますか?」(『大東亜論』を読んだかただったら、ご存じですよね。作者は異なるけれども、「陸奥」圓明流の『修羅の刻』とかいう漫画とかでもそういうことが描かれています。見ていないけれども、大河ドラマ『龍馬伝』あたりにも多分あったはず)。
という話をしたら、それは初耳だったようです。
(他者の評価をしてはならないのだけれども)この人は、ほかの人の話を「おちょくる」のが好きなようです。しかし、勤勉で、面倒見がよく、自分のような「口だけ番長」ではなく、現実主義者(現状委任派)、上司への受けもいいので、信頼される、交際範囲がひろい、となるわけです。
私は、こういうのを「郷原(その地域での人気者)は徳の賊なり」(論語の言葉)とか思ったりするのですが…負け惜しみかな?
関係ないけれども、三浦瑠麗さんの件などで、こんなことを思いました。つまり、要領の良い人間って、どんな事態でもうまく対処する場合もある、と。
それこそ、今度こそ、「天網恢々疎にして漏らさず」となるのでしょうか?「コロナ論」での先生への意見の同調を見ていると、立ち廻りをうまく演じてしまうような気もする。
私もその知人の不幸や天罰をのぞんでいるわけではありません。ただ、「コロナ論を貸してあげようか?」と言われて、「こういうのに影響されてはいけないから」とか言って、断るのは認めます。しかし、その後、何の調査もなく、偏見で「反ワクチンで不当に金を稼いでいるやつもいる」「コロナじゃ儲けられないから、皇室の問題にシフトしたんだろ?」と言い切ったり、「××さん(私のこと)は最近、医学のことにもはまっているんだよね?」「サージカルマスクの件も小林よしのりの指示なんだろう?」と言ってしまえる神経が、本当に頭に来てたまらない。せめて、こちらの言い分も聞いた上で、どちらが妥当と思えるのか、という判断はして欲しいとも思うし、そういうことができないようなら、意見を差し控えて、無関心でもいいのではないか、と。
「おぼっちゃまくん」については、「がきデカと似たようなところがあるよ」という意見を私が言ったところ、「漫画の系譜としてはそうなんじゃないの?」と言ってごまかしているのだけれど、「ゴーマニズム宣言」といっしょくたにし、「小林よしのりの作品だから」というような評価をしています。「戦争論を読んで、頭の良い人だとは思ったよ」というふうな発言もしていました。その言い方も、ある種の憎しみ、あるいは軽蔑(自分へのか?)が籠もっているようでした。
それとも、世間一般の人が抱く「ゴーマニズム宣言」の印象は、そんなものなのでしょうか?どうして、「この部分はこう、あの部分はどうかな?、ひょっとしたらどれもただしいのか?」「場合によっては思い違いもあるかな?」みたいな評価をできないのか?
そんなに人間性(あるいは大多数の目にうつる人間像)とか、その人の人格、あるいは能力とかは、意見や思想と混同されてしまうものなのか?(また話をもどすけれども)コロナウイルスにおける三浦瑠麗さんの意見も、その部分では、よしりん先生と共通するものがある、というだけでしょう。ただ背景や立場が異なるから、「呉越同舟」の部分もあるのだとは言えるのだけれども。
もしも、自分がすぐれた人格の人間で、陰キャラではなく、仕事実践能力、同じミスを何度もしないような人間だったら、とか思ったりするのです。コロナやワクチンの話も、もっと耳にして貰えたのかな?
以上、やはり愚痴っぽい話になりました。あるいは、みなさんも、コロナやワクチンのことなどでこういう思いをしているのだろうと思うし、皇室問題やウクライナ戦争でも同様のことが起きているのかも知れないです。「あなたのおっしゃっていることは学校のお勉強だ、天然ガスは世界の死活問題だ」「そんなことよりも仕事をしろ」「はやく寝て、ナルコレプシーを起こさないようにせよ」というふうに。
どうしたら、思想の面も、実生活における活動の面も両立できるのか、さらに個人的な夢も。そんなところです。
上述のようにも申しましたが、三浦瑠麗さんの不正の件は多分そうなるでしょう。権力におべっかを使って痛い目を見るやからとか、あるいはおちょくりをしているようでいて、一般論に沿ったことしか言わないやからとか…相応の報いがあるのかな?
つれづれなるままに、心にうつりゆく由無しごとを、そこはかとなく書き付けてみました…。そろそろ遊んでいないで、感想などをまとめます。