Dr.U のコメント

>>140 希蝶さん

 丁寧なコメントをいただき、ありがとうございます。

 希蝶さんがおっしゃるとおり、小林先生は「元明→元正」の例を挙げて「母親から子へ」と皇位が継承されたケースをもって「女系」の継承であるという考えを示されていました。(同じ論理で「皇極→天智」の例にも触れられていたように記憶しています。)

 私はこの考え方について、これを「女系」と呼んで問題ないかどうか考えたことがあります。結果として、この事例は「母子間」の継承とは言えても、一般的には「女系」の継承という呼び方はしないようだ、という結論に至りました。(社会学や人類学の論文をいくつか見てみたのですが、母から子へと地位・財産の継承・相続が起こった事例をもって「女系で継承・相続がなされた」というような言い方はしないようなのです。)

 実際、社会学や人類学での「男系(父系)」や「女系(母系)」の用語では、これらは、ある人物の「血統」を明らかにし、それによってその人が特定の地位・財産を継承する資格があるかどうかという、いわば「資格審査」について考察する際に重要になってくる概念であるようです。

 ある王様(族長、大神官、家元、etc.)が死んだ、さて、誰が後継者になるか。その時に混乱がないように、スムーズに後継者を決定する(候補者をしぼりこむ)原理として、男系、女系、長子優先、直系優先、男子優先などの様々なルールが活用されます。
 日本の皇位継承の文脈における「男系」概念も、ある人物が皇位継承の資格があるかどうかを法的に定める際に持ち出される概念です。

 そうしますと、「元明→元正」の皇位継承は、元正がその血統において男系であったがゆえに可能になったという説明は、確かに話としては筋は通っています。草壁皇子が天皇に即位したか即位しなかったかに関係なく、元正は父草壁の男系の血筋において皇祖につながる人間であった以上は、彼女は「有資格者」であったということになります。
 
 同じ原理を、たとえば継体天皇は父や祖父が天皇ではなかったのに天皇に即位したというケースや、現在、仮に秋篠宮さまが次の天皇に即位されなくても、悠仁さまが即位されることが可能となっているというところにも、見て取ることが出来ます。

 基本的に「男系(父系)」や「女系(母系)」という概念は、父子間や母子間など二世代間での地位・財産の継承の外面的形式を論じるための道具ではありません。それは、より長いタイムスパンで、数世代以上にわたる先祖との血のつながりが記憶されている(原始的ではない)社会において、社会の一成員が特定の祖先(皇祖・開祖など)といかなる血のつながり方をしていて、それを社会原理として、どのように社会がその成員に地位・財産の継承資格を付与しているか、を論じるためのものです。

 そうしますと、「元明→元正」の例から言えることは「女系の継承という先例があった」ということではなく、正しくは「日本は女性天皇だけでなく、さらに女性天皇からその子への皇位継承という先例もあった」ということだけなのではないでしょうか。つまり、この事例自体は、皇位継承者は「男系」の原理によって決定されてきたという男系固執派の理屈をくつがえすものではありません。

 もちろん、このような「男系継承」のルールが、いかなる歴史的経緯を経て、いつ頃から意識され、主張され、社会に拡がり、最終的に明治の皇室典範において中心的原理になるに至ったのかという問題は、きわめて大きな、きわめて興味深い問題です。
 
 おそらくは、義江明子さんの研究などが示唆するように、古代には「男系」などの社会原理はさほど意識されることなく、皇位継承に関しても、男であれ女であれ「天皇の一族」であって実力と人望のある人ならば皇位を継承することができた時代があったのだと思います。平安時代以降も、内裏の内部ではシナ的・儒教的な男系原理が貴族層・知識階級を中心に少しずつ浸透していったかもしれませんが、その外側の大部分の日本人は「男系血統」をそこまで絶対視してはいなかったようです。江戸時代でも、武家でも商家でも、しばしば他家から婿養子をとって「家」を存続させてきたことは周知の通りです。
 このような状況が明治以降も続いていたからこそ、結果として現在、8割以上の国民が「愛子さまが天皇になられても、いいんじゃないの? 愛子さまのお子様が皇位を引き継がれるの、何がだめなの?」というような素朴な庶民的感覚が存在するのでしょう。

 ちなみに男系固執派の人たちの努力(?)は、義江さん流の「女性の社会的な力」についての議論を可能な限りディスカウントし、逆に男系継承の原理が、いかに古い時代から強い影響力を持っていたかを強調することに向けられているようです。たとえば、大宝令の「女帝の子もまた同じ」、の文言ですが、私のような素人がさっと読む限りでは、なるほどこの時代には男系の原理はさほど決定的ではなかったのかと考えてしまうわけですが、これに対しては、男系固執派の人たちから執拗な批判がなされているようです(「女帝の子もまた同じ」でネット検索すると高森先生の議論やそれに反対する中川八洋らの議論などたくさん情報が出てきます。)。

 日本の歴史において、男系血統の原理がどれくらい強かったのか、あるいは弱かったのか、という議論をし始めると、かならず賛否両論が出てきて、先のコメントでも述べましたが、用語の定義や細かい事例の解釈をめぐる、うんざりとするような戦いが始まります。小林先生は、戦後の自虐史観をかなり見事にひっくり返されたように思いますが、このようなケースは比較的稀ではないでしょうか。裁判官のもとではっきりと白黒が付けられる裁判とは異なり、歴史をめぐる論争は、どうしても白黒の間の灰色のところで話が滞ってしまいます。

 以上のように考えますと、やはり、「男系」「双系」をめぐって歴史解釈について男系固執派と議論するのは、ほどほどしておくのがいいような気がしてきました。

 希蝶さんへの十分なお返事なっていないかもしれませんが、このあたりで。

 *やギさん、さらなるコメント、ありがとうございます。ゆっくり読ませていただきます。

🐇🐇🐇…

No.146 17ヶ月前

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