>>199 rokuさま >人は、どれほど価値相対主義を主張しようと価値絶対主義からは逃れられない という理解でよろしいでしょうか。 私はそう理解しています。 価値相対主義を主張する人は、相対でも絶対でもいい、とは主張しないですからね。相対でなければ、絶対にダメだ、と主張するわけです。いったい、相対を主張したいのか絶対を主張したいのか、どっちなのですかね(笑)。 価値相対主義が、そのようにまやかしとはいえ、では、絶対の価値とは何ぞや、と問われたら、どうでしょうか。少なくとも私は返答に窮しますし、たいがいの人がそうでしょう。何しろこの問いは、かの「人はどう生きるべきか」という問いと同断ですし、誰も神様ではありませんから。 ただ、誰もミジンコでもないので、「考える」という行為ができてしまいます。たとえば5+3はいくつかと考えるとき、答えは好き好きでいい、とは考えませんよね。「考える」という行為自体が、相対ではなく、絶対を求める性質を備えているのだと思います。 人はどう生きるべきか、正解は答えられなくても、考えることはできるので、神様とそれなりに付き合いながら日々を送っている、というのが人間の実情だと思います。 そして、あの対話のオチは、Aさんが、Bさんによって、「考える」という行為に誘導された、ということなのでしょう。
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小林よしのりチャンネル
(ID:4494830)
>>199
rokuさま
>人は、どれほど価値相対主義を主張しようと価値絶対主義からは逃れられない という理解でよろしいでしょうか。
私はそう理解しています。
価値相対主義を主張する人は、相対でも絶対でもいい、とは主張しないですからね。相対でなければ、絶対にダメだ、と主張するわけです。いったい、相対を主張したいのか絶対を主張したいのか、どっちなのですかね(笑)。
価値相対主義が、そのようにまやかしとはいえ、では、絶対の価値とは何ぞや、と問われたら、どうでしょうか。少なくとも私は返答に窮しますし、たいがいの人がそうでしょう。何しろこの問いは、かの「人はどう生きるべきか」という問いと同断ですし、誰も神様ではありませんから。
ただ、誰もミジンコでもないので、「考える」という行為ができてしまいます。たとえば5+3はいくつかと考えるとき、答えは好き好きでいい、とは考えませんよね。「考える」という行為自体が、相対ではなく、絶対を求める性質を備えているのだと思います。
人はどう生きるべきか、正解は答えられなくても、考えることはできるので、神様とそれなりに付き合いながら日々を送っている、というのが人間の実情だと思います。
そして、あの対話のオチは、Aさんが、Bさんによって、「考える」という行為に誘導された、ということなのでしょう。