すみません、毎度のことですが、今回は本当にぎりぎりです。今号の号外版の感想です。 〇 ゴーマニズム宣言・第463回「はじめてのおつかい」 今回のライジングのテーマは随分とほのぼのしてるといった印象ですが、さにあらず。先にも記しましたが、芥川龍之介の「トロッコ」を思い出しました。 未読のかたは…多分存在しないと思うけれども(私は高校の学校の授業で習った)、あらすじを。良平という少年が、軽便列車敷設工事のトロッコを土工が押しているのに興味を感じ、ある日、2人の若い土工が押しているのを見て、頼んで参加させて貰います。しかし、途中で日が暮れ、土工たちは良平に元来た道をもどるうように、と言われます。良平は線路伝いに、暗くなった道を無我夢中で駆け、やっとの思いで家に辿りついた時には両親の前で泣き出してしまった、という話です。 恐らく、「はじめてのおつかい」がやっていることは、この「トロッコ」と同じことなのではないか、と思います。「おつかい」の場合はスタッフが監視しているのでしょうが、いくら線路伝いに帰ればいいとは言え、薄暗くなった竹藪や雜木や、蜜柑畑を目の前にして、ひとりで引き返さなければならなかった8歳の良平の孤独は計り知れないものだろうと想像します。それでも子供は大人のしていることに興味を持ち、自分も参加したい、実際にやってみたいと思ってしまうのですよね。だからこそ、大人は軽々しく子供の前で振る舞ってはいけない、模倣されることもあるのだから、という結論になるわけです。 ちなみにトロッコの最後は、その良平も26歳になり、妻子持ちになって東京で仕事をするようになったが、何の理由もないのに、その時の情景を思い返すことがある、というもので、恐らく大人になるということが、自由であるのと同様に、孤独で不安定なものでもある、ということなのでしょうか。つまり、(人に相談したり、助言を受けるようなことがあっても)とどのつまりは、「自分」が決定しなければならない。たとえ、その事象について知らなかったとしても、その決断は「自分」のものであり、その責任も「自分」がとらねばならない。それは恐ろしく孤独なものであり、不安定なものだけれども、「生きる」という行為がそれだけ重いものであり、理不尽なように見えてもその影響はすべて自分が受けなければならない。「無知」も自分の下した判断と見なされてしまう。「トロッコ」のラストはそのことを示唆しているように見え、だからこそ、大人同様の「人権」が「子供」にも適用されると考えるのはあやまりではないか、子供の側から見ればそれは理不尽に見えるのでしょうが、と言えるのでしょう。 何だか読書感想文のようなコメントになってしまいましたが、これでよろしいでしょうか?実を言えば、この文章を記しているうちに、江戸川乱歩の「目羅博士の不思議な犯罪」なども思い出してしまったのですが、それはやめておきます(子供は猿とは違いますよね)。 〇 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第257回「科学なし・論理なしの不思議な医療ライターからのご反論《2》」 それで話を続けるのですが、このたかむら何とかというライターこそ、「目羅博士」が仕組んだ犯罪に引っ掛かる「猿」のような存在と言えるのでしょう。つまり、全部「印象」であるわけですよね。ワクチンによる「自然免疫」説にしても、mRNAワクチンの話にしても、ダウン症にしても、リベラルアーツのことにしても、台湾やニュージーランドのことも、グローバル化の話も、すべて「小林よしのりはこう言っているに違いない」という印象で語られており、自己で調査・検証しようという姿勢にかけている、そんな感じがしました。しかし、(おうち時間で楽になったと想定されるのですが)忙しい日常を暮らしている私たちにとって、そんなことはどうでもいいのかな、ただ、どこかの偉そうな人がもっともらしいことを語っているとそれが真実のように見えてしまうのでしょうか。 私はアンチという人たちに聞いてみたいのですが、いったい、小林よしのりという人が貴方の人生にいかなる危害や暴力を及ぼしたのか、訊ねてみたい衝動に駆られるのですが、それはやめておいた方がいいような気がします。それこそ「場の雰囲気」を悪くするだけでしょうから。日本人の99%以上が世間の視線で動いているというのはそういうことを示しているのでしょうか? 何だかあまり長くするのもつまらないので、この程度にします。一度先入観や偏見を抱いてしまった人間はその視点から逃れることが難しいのでしょうから。悔しいと思ったら、本当に自分で調べ、考えて欲しいものです。こちらは「アドヴァイス」をしないとは申してはおりませんから。こんな感じです。
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すみません、毎度のことですが、今回は本当にぎりぎりです。今号の号外版の感想です。
〇 ゴーマニズム宣言・第463回「はじめてのおつかい」
今回のライジングのテーマは随分とほのぼのしてるといった印象ですが、さにあらず。先にも記しましたが、芥川龍之介の「トロッコ」を思い出しました。
未読のかたは…多分存在しないと思うけれども(私は高校の学校の授業で習った)、あらすじを。良平という少年が、軽便列車敷設工事のトロッコを土工が押しているのに興味を感じ、ある日、2人の若い土工が押しているのを見て、頼んで参加させて貰います。しかし、途中で日が暮れ、土工たちは良平に元来た道をもどるうように、と言われます。良平は線路伝いに、暗くなった道を無我夢中で駆け、やっとの思いで家に辿りついた時には両親の前で泣き出してしまった、という話です。
恐らく、「はじめてのおつかい」がやっていることは、この「トロッコ」と同じことなのではないか、と思います。「おつかい」の場合はスタッフが監視しているのでしょうが、いくら線路伝いに帰ればいいとは言え、薄暗くなった竹藪や雜木や、蜜柑畑を目の前にして、ひとりで引き返さなければならなかった8歳の良平の孤独は計り知れないものだろうと想像します。それでも子供は大人のしていることに興味を持ち、自分も参加したい、実際にやってみたいと思ってしまうのですよね。だからこそ、大人は軽々しく子供の前で振る舞ってはいけない、模倣されることもあるのだから、という結論になるわけです。
ちなみにトロッコの最後は、その良平も26歳になり、妻子持ちになって東京で仕事をするようになったが、何の理由もないのに、その時の情景を思い返すことがある、というもので、恐らく大人になるということが、自由であるのと同様に、孤独で不安定なものでもある、ということなのでしょうか。つまり、(人に相談したり、助言を受けるようなことがあっても)とどのつまりは、「自分」が決定しなければならない。たとえ、その事象について知らなかったとしても、その決断は「自分」のものであり、その責任も「自分」がとらねばならない。それは恐ろしく孤独なものであり、不安定なものだけれども、「生きる」という行為がそれだけ重いものであり、理不尽なように見えてもその影響はすべて自分が受けなければならない。「無知」も自分の下した判断と見なされてしまう。「トロッコ」のラストはそのことを示唆しているように見え、だからこそ、大人同様の「人権」が「子供」にも適用されると考えるのはあやまりではないか、子供の側から見ればそれは理不尽に見えるのでしょうが、と言えるのでしょう。
何だか読書感想文のようなコメントになってしまいましたが、これでよろしいでしょうか?実を言えば、この文章を記しているうちに、江戸川乱歩の「目羅博士の不思議な犯罪」なども思い出してしまったのですが、それはやめておきます(子供は猿とは違いますよね)。
〇 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第257回「科学なし・論理なしの不思議な医療ライターからのご反論《2》」
それで話を続けるのですが、このたかむら何とかというライターこそ、「目羅博士」が仕組んだ犯罪に引っ掛かる「猿」のような存在と言えるのでしょう。つまり、全部「印象」であるわけですよね。ワクチンによる「自然免疫」説にしても、mRNAワクチンの話にしても、ダウン症にしても、リベラルアーツのことにしても、台湾やニュージーランドのことも、グローバル化の話も、すべて「小林よしのりはこう言っているに違いない」という印象で語られており、自己で調査・検証しようという姿勢にかけている、そんな感じがしました。しかし、(おうち時間で楽になったと想定されるのですが)忙しい日常を暮らしている私たちにとって、そんなことはどうでもいいのかな、ただ、どこかの偉そうな人がもっともらしいことを語っているとそれが真実のように見えてしまうのでしょうか。
私はアンチという人たちに聞いてみたいのですが、いったい、小林よしのりという人が貴方の人生にいかなる危害や暴力を及ぼしたのか、訊ねてみたい衝動に駆られるのですが、それはやめておいた方がいいような気がします。それこそ「場の雰囲気」を悪くするだけでしょうから。日本人の99%以上が世間の視線で動いているというのはそういうことを示しているのでしょうか?
何だかあまり長くするのもつまらないので、この程度にします。一度先入観や偏見を抱いてしまった人間はその視点から逃れることが難しいのでしょうから。悔しいと思ったら、本当に自分で調べ、考えて欲しいものです。こちらは「アドヴァイス」をしないとは申してはおりませんから。こんな感じです。