<どちらも尊重するのかい> 価値観がむき出しになって、和解できないところまで来たというのなら、いいのでしょう。 冬山に挑む。3人に1人はかえって来れないような過酷な山。ある登山家は、自らの命をかけて、家庭をなげうってでも、危険な山に挑みたいと言う。別の登山家は、命は大切だ、家族のことを考えると、山で死ぬことはできないと言う。 対話して、その結果、互いの生き方の違いだというところまで話し合えたら、それでいいのだと思います。 ただ、今はそこまで行ってない。やギさんの言い方で言えば、人文(哲学や宗教)の手前の、科学(事実の客観的認識)のところで、ごたごたが起きている。むろん、科学も光の正体を粒子をとるか波動ととるかという問題のように、ぎりぎりのところで和解が不可能なところに行きつくことはあるのですが、今は、そんな上等な話をしているのではない。 井上先生が、楊井さんとの会話の中で、「イラッ」としてましたね。井上先生の心の声が、聞こえてきました。 「学級委員長のようにいい子ぶって、何をええかっこしいなことを言っとるか! 『どちらも尊重』なんてのは、ぎりぎりのところまで研ぎ澄まされた二つの議論の間で、初めて出てくる言葉なんだぞ。お前は、そこまで行ってないだろう。単なる、勉強不足ではないか!」 まぁ、どこか憎めないところのある「くらたま」さんはおいといて、楊井さんは一通りの情報や考え方に目を通したことは確かでしょう。 それでは、なぜ楊井さんは、あの会場にいた多くの人たちほどには、井上先生や小林先生の議論に対して強い説得力を感じることがないのでしょうか。一つ考えられるのは、井上先生・小林先生と、楊井さんとでは、経験と感情が共有されていないということです。 たとえば小林先生の場合、ワクチンの危険性を語るときには、常に心の中に薬害エイズで死んで行った子供たちの顔がある。一つ一つの言葉と絵の裏側に、そうした心が締め付けられるような原体験がある。そして小林先生のもとに集まってきている人たちの大半は、仮にそういう原体験を直接に共有していないとしても、漫画を通して、そして自分の人生の中の似たような体験と照らし合わせて、そしてイマジネーションを活性化させて、小林先生の原体験を追体験してきた。最初は共鳴が弱かった人も、小林先生の漫画を読み続ける中で、少しずつ共鳴の度合いを強めていく(あるいは躓いてアンチになる)。 簡単に言うと、知識には、自分の体験と感情に深く結びついたものと、そうでないものとがある。ある人にとっは、たとえば、子供たちがマスクを1年間つけなかったら、その人格形成に恐ろしい影響が出る、とか言われても、本当のところそれがどれくらい「恐ろしい」のか、どれくらい人間にとって悲しくて痛々しいことなのかが、リアルには分からない。だから結局、マスクをつけるべきか、つけざるべきか、という判断を下さなければならないときに、自分の心の中ではこの「恐ろしい」とされる事柄が重い事実として浮上してこない。 対話している者の間に、そこで発される言葉の強さを根底で支えているはずの「体験」が、あまり共有されていないという状況。社会学者の清水幾太郎という人は、『愛国心』(1950年)という本の中で、対話において相手の体験(経験)を思いやることの重要性について、次のように述べています。 「民主主義は、各人が合理的な理解の能力を持つことを前提し,相反する思想、信仰、利害を有する人々が自由な討論を通じて次第に了解と一致とに導かれていくことを信じる。」 重要なのは、これに続く、次の一文。 「各人の経験は討論の過程において諸要素に分析され、双方の諸要素の比較と総合とを媒介として了解及び一致が獲得されると考えるのである。これは相手の合理的能力への信頼と相手の経験の深さ及び広さへの予想があって可能なことであり、翻ってまた自己の推理が人間らしい誤謬を含み得るし、また自己の経験が狭隘であるかも知れないという謙遜の態度である。」(p.82) 別のところでは、次のようにも述べています。 「対立があるところに寛容が終るのではなく、ここに初めて寛容が必要となるのである。自己の言い分を十分に表現して相手を納得させると同時に、相手の言い分を何処までも理解しようとする態度がなければならぬ。自己の経験と相手の経験との交換を通して解決に接近しようという行き方である。」(p.198) 相手の言葉の背後にある、その言葉を支えている経験を思いやること。(ただし、何にも支えられていない言葉もある。ひろゆきくんの言葉みたいな、子供がママに相手にしてもらいたい時に発する言葉。) そういう意味では、楊井さんの言葉にも、それなりの体験はあるのかもしれません。暴力的に言論を封殺された人たちが、状況が変わって追い風が吹くようになると、仕返しのように対立者の言論を封殺しようとするといった、嫌な体験を、柳井さんはたくさん目撃して来たのかもしれません。 さて、結論はどうなるのだろうか。こちらの意見がさっぱり通じない相手や「どちらも尊重しましょう派」の人たちに、いずれも共通しているのは、彼らが、こちらの言葉を根底で支えている体験・経験・感情を知らない、ということです。だから、相手の理解を得るには、自分たちの体験を伝えなければならない。共感してもらわなければならない。それこそ、文章だけでなく、顔と顔を合わせて、身振り手振りで、あるいは迫力と臨場感のある漫画や映像などのメディアを駆使して、あるいは様々な説得のための小技・大技を駆使して。 *********** もう一つのやり方。非民主主義的な方法。暴発すること。超法規的。相手の合意は得られなくても、結果として、世の中に正しいことが実現され、間違ったことが実現されないのなら、それでいいというやり方。毒ワクチンが若者に打たれることがない、という状況が実現されるなら、手段は問わない。今は議論する時期ではない、緊急事態である、行動するときだ。 そういうことを言う人もいる。そういう状況もあるのかもしれない。天と対話して、神と対話して、絶対的なものとの対話の中で、己の行動は正しいと信じて、行動するということも、あるのかもしれない。自らの行動は、天道・王道に外れていないかという、孤独な判断(一神教徒だけしかそういうことが出来ないというのは間違った認識だ)。 しかし、この道は、とてつもなく、危い。広く会議を興し、万機公論に決せよ、という言葉が、聞こえる。 うさぎより。
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<どちらも尊重するのかい>
価値観がむき出しになって、和解できないところまで来たというのなら、いいのでしょう。
冬山に挑む。3人に1人はかえって来れないような過酷な山。ある登山家は、自らの命をかけて、家庭をなげうってでも、危険な山に挑みたいと言う。別の登山家は、命は大切だ、家族のことを考えると、山で死ぬことはできないと言う。
対話して、その結果、互いの生き方の違いだというところまで話し合えたら、それでいいのだと思います。
ただ、今はそこまで行ってない。やギさんの言い方で言えば、人文(哲学や宗教)の手前の、科学(事実の客観的認識)のところで、ごたごたが起きている。むろん、科学も光の正体を粒子をとるか波動ととるかという問題のように、ぎりぎりのところで和解が不可能なところに行きつくことはあるのですが、今は、そんな上等な話をしているのではない。
井上先生が、楊井さんとの会話の中で、「イラッ」としてましたね。井上先生の心の声が、聞こえてきました。
「学級委員長のようにいい子ぶって、何をええかっこしいなことを言っとるか! 『どちらも尊重』なんてのは、ぎりぎりのところまで研ぎ澄まされた二つの議論の間で、初めて出てくる言葉なんだぞ。お前は、そこまで行ってないだろう。単なる、勉強不足ではないか!」
まぁ、どこか憎めないところのある「くらたま」さんはおいといて、楊井さんは一通りの情報や考え方に目を通したことは確かでしょう。
それでは、なぜ楊井さんは、あの会場にいた多くの人たちほどには、井上先生や小林先生の議論に対して強い説得力を感じることがないのでしょうか。一つ考えられるのは、井上先生・小林先生と、楊井さんとでは、経験と感情が共有されていないということです。
たとえば小林先生の場合、ワクチンの危険性を語るときには、常に心の中に薬害エイズで死んで行った子供たちの顔がある。一つ一つの言葉と絵の裏側に、そうした心が締め付けられるような原体験がある。そして小林先生のもとに集まってきている人たちの大半は、仮にそういう原体験を直接に共有していないとしても、漫画を通して、そして自分の人生の中の似たような体験と照らし合わせて、そしてイマジネーションを活性化させて、小林先生の原体験を追体験してきた。最初は共鳴が弱かった人も、小林先生の漫画を読み続ける中で、少しずつ共鳴の度合いを強めていく(あるいは躓いてアンチになる)。
簡単に言うと、知識には、自分の体験と感情に深く結びついたものと、そうでないものとがある。ある人にとっは、たとえば、子供たちがマスクを1年間つけなかったら、その人格形成に恐ろしい影響が出る、とか言われても、本当のところそれがどれくらい「恐ろしい」のか、どれくらい人間にとって悲しくて痛々しいことなのかが、リアルには分からない。だから結局、マスクをつけるべきか、つけざるべきか、という判断を下さなければならないときに、自分の心の中ではこの「恐ろしい」とされる事柄が重い事実として浮上してこない。
対話している者の間に、そこで発される言葉の強さを根底で支えているはずの「体験」が、あまり共有されていないという状況。社会学者の清水幾太郎という人は、『愛国心』(1950年)という本の中で、対話において相手の体験(経験)を思いやることの重要性について、次のように述べています。
「民主主義は、各人が合理的な理解の能力を持つことを前提し,相反する思想、信仰、利害を有する人々が自由な討論を通じて次第に了解と一致とに導かれていくことを信じる。」
重要なのは、これに続く、次の一文。
「各人の経験は討論の過程において諸要素に分析され、双方の諸要素の比較と総合とを媒介として了解及び一致が獲得されると考えるのである。これは相手の合理的能力への信頼と相手の経験の深さ及び広さへの予想があって可能なことであり、翻ってまた自己の推理が人間らしい誤謬を含み得るし、また自己の経験が狭隘であるかも知れないという謙遜の態度である。」(p.82)
別のところでは、次のようにも述べています。
「対立があるところに寛容が終るのではなく、ここに初めて寛容が必要となるのである。自己の言い分を十分に表現して相手を納得させると同時に、相手の言い分を何処までも理解しようとする態度がなければならぬ。自己の経験と相手の経験との交換を通して解決に接近しようという行き方である。」(p.198)
相手の言葉の背後にある、その言葉を支えている経験を思いやること。(ただし、何にも支えられていない言葉もある。ひろゆきくんの言葉みたいな、子供がママに相手にしてもらいたい時に発する言葉。) そういう意味では、楊井さんの言葉にも、それなりの体験はあるのかもしれません。暴力的に言論を封殺された人たちが、状況が変わって追い風が吹くようになると、仕返しのように対立者の言論を封殺しようとするといった、嫌な体験を、柳井さんはたくさん目撃して来たのかもしれません。
さて、結論はどうなるのだろうか。こちらの意見がさっぱり通じない相手や「どちらも尊重しましょう派」の人たちに、いずれも共通しているのは、彼らが、こちらの言葉を根底で支えている体験・経験・感情を知らない、ということです。だから、相手の理解を得るには、自分たちの体験を伝えなければならない。共感してもらわなければならない。それこそ、文章だけでなく、顔と顔を合わせて、身振り手振りで、あるいは迫力と臨場感のある漫画や映像などのメディアを駆使して、あるいは様々な説得のための小技・大技を駆使して。
***********
もう一つのやり方。非民主主義的な方法。暴発すること。超法規的。相手の合意は得られなくても、結果として、世の中に正しいことが実現され、間違ったことが実現されないのなら、それでいいというやり方。毒ワクチンが若者に打たれることがない、という状況が実現されるなら、手段は問わない。今は議論する時期ではない、緊急事態である、行動するときだ。
そういうことを言う人もいる。そういう状況もあるのかもしれない。天と対話して、神と対話して、絶対的なものとの対話の中で、己の行動は正しいと信じて、行動するということも、あるのかもしれない。自らの行動は、天道・王道に外れていないかという、孤独な判断(一神教徒だけしかそういうことが出来ないというのは間違った認識だ)。
しかし、この道は、とてつもなく、危い。広く会議を興し、万機公論に決せよ、という言葉が、聞こえる。
うさぎより。