roku のコメント

倉持さんの『論座』への寄稿、拝読いたしました。昨日の、動画でのお話が、文字にされていて、改めて、確認できて良かったです。でも、動画のほうが、より倉持さんの独創的な思考が語られていて面白かったですけれど。文字制限もあるのでしょうし、長すぎるのも避けられたのでしょう。
「半径50メートルしか見えてない、自分さえよければよいという個人は、政治のことなど考える余裕もないし必要もない」これは、「凡庸な悪」にも通じることですね。決して私自身からも遠い言葉では、ありません。上記の倉持さんの言葉は、実は非常に残酷な人間の特徴を述べたものであり、一般庶民のほとんどが、もちあわせている可能性のある一面だと思うのですが、これが、なかなか、自分にはこういう一面を持ち合わせているのだと、認めにくいのですよね。人というのは、ほとんどの人が実に自分本位な残酷な一面を持っているものだと意識しなければならないのですが、というか、認めてれば、生きるのも随分楽になるのですが。なかなか、”善良な一般市民”は、そこを自覚することができません。このことを意識できていると、私を含めて同じ子悪党でも、それなりに他者のために何かをしたいと思うようになるものです。自分が、子悪党だと意識すれば、おのずと謙虚にならざるえず、他者を尊重し、気持ちを慮ろうとする心根になるものです。
これは、心理学的視点から考えて見ました。素人ですが。
真の保守であるよしりん先生や西部邁先生なら、「他者を尊重し、日々、政治的な問題や共同体のあり方について自分を律することのできる『強い個人』が想定」されている民主主義が、「無制限の最高権力者」としての権力をもらうに相応しい「御立派な存在」と想定いるにもかかわらず、そうでなかったので、「民主主義を敵」として生きてきた という言葉になっていくのでしょう。まだ、読んでいないのですが、倉持さん著書の『レベラルの敵はリベラル」だったことになるのでしょうね。要は、人とは、「弱い個人」であるということを認めた上で、”非常に自分勝手で残酷な一面を持つ自己"であると言うことを、認めた上で、民主主義という考えを再構築しなければならないということでしょうか。

今日のよしりん先生のブログで心に残った言葉 同調圧力に弱い貧弱な個をもつ現代(敢えて)の日本人に対して「世間を突破するためには、対抗する世間を作らねばならず新世間から個人を生み出す工夫をするしかない」
本当にそうだと思います。

No.158 37ヶ月前

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