伊集院光が自身のラジオ番組で、古典落語の演目「禁酒番屋」について話していたのですが、 「要は『お酒出してるじゃないのっ!』って言ってくる小池百合子にションベン飲ませるような噺」 と表現していたのに笑ってしまいました。 いいですね、この発想。 思い返してみれば、昔の畜群ではなかった日本人は、世の中の規制に対して「これ、○○じゃないもん。××だもん」というユーモアが感じられる言い訳を用意して規制を逃れる文化がありましたよね。 近江牛は薬だったし、ウサギは獣ではなく鳥だったし、猪肉はボタンだったし、イカのぼりは凧と名前が変わってしまいました(諸説あるのでしょうけど)。 お上や共同体も、そういう誰もが持つ欲求や心情のようなものを察していて、口ではダメだと言いつつも見て見ぬフリをする、という時代だったのだろう、と。 やはり古典落語の演目「二番煎じ」にも、少し似たような要素が見られますね。 でも、こうした良い意味で「法」よりも「情」が優先される前近代の感覚が鳴りを潜めてしまったのは、大衆や畜群が多数を占めるようになってしまったからなのかなあ、と思います。 そして「法治主義」より「人治主義」「情緒主義」へと傾き続けている社会が、圧倒的に権力に有利に働き、その事実に大衆や畜群は毛先ほどにも気付かないという事実。 今の日本で、酒を「これ、水カステラです」として出すようなマネをしたら、ネットとマスコミでフルボッコにされるんだろうな、と。 色々な意味で、日本のヤバさを感じます。
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小林よしのりチャンネル
(ID:2345820)
伊集院光が自身のラジオ番組で、古典落語の演目「禁酒番屋」について話していたのですが、
「要は『お酒出してるじゃないのっ!』って言ってくる小池百合子にションベン飲ませるような噺」
と表現していたのに笑ってしまいました。
いいですね、この発想。
思い返してみれば、昔の畜群ではなかった日本人は、世の中の規制に対して「これ、○○じゃないもん。××だもん」というユーモアが感じられる言い訳を用意して規制を逃れる文化がありましたよね。
近江牛は薬だったし、ウサギは獣ではなく鳥だったし、猪肉はボタンだったし、イカのぼりは凧と名前が変わってしまいました(諸説あるのでしょうけど)。
お上や共同体も、そういう誰もが持つ欲求や心情のようなものを察していて、口ではダメだと言いつつも見て見ぬフリをする、という時代だったのだろう、と。
やはり古典落語の演目「二番煎じ」にも、少し似たような要素が見られますね。
でも、こうした良い意味で「法」よりも「情」が優先される前近代の感覚が鳴りを潜めてしまったのは、大衆や畜群が多数を占めるようになってしまったからなのかなあ、と思います。
そして「法治主義」より「人治主義」「情緒主義」へと傾き続けている社会が、圧倒的に権力に有利に働き、その事実に大衆や畜群は毛先ほどにも気付かないという事実。
今の日本で、酒を「これ、水カステラです」として出すようなマネをしたら、ネットとマスコミでフルボッコにされるんだろうな、と。
色々な意味で、日本のヤバさを感じます。