希蝶 のコメント

 本当にぎりぎりになりました。今号の感想です。

 ゴーマニズム宣言・第409回「森喜朗発言は女性差別ではない」

 森元首相の責任を追求している女性議員などは、「木を見て森を見ず」なんだな、と感じました。要は日本人は「空気」で会話しているわけで、文章の全体の意味とか、その発言者が何を主張したいのかを読解せず、ただ言葉の揚げ足取りをしているだけなのかな、と思いました。それが日本人の特質なのかな、と。自分のように言葉の意味や、文意を気にする人間にとっては、まるで未知の領域ですが。
 以前、辻元議員が、当時の西村防衛大臣の「強姦」発言を問題にした箇所が、「ゴー宣」で描かれていましたが、そのことも思い出しました。

 マスコミは偉そうな人間がいたら、ただその人を潰したいのでしょう。それで、民主主義で、権力が自分たちのところにある、と勘違いしている。権力には義務がつきもので、さらに言えば、権威があってこそ、本当の意味での権力が与えられるのでしょうけれども。
コロナウイルス騒動で、専門家と称する畑違いの分野の人達の意見を聞くのは、自分たちの意見に箔をつけるためでもあるのでしょう。しかし、鍍金のようなもので、はがれれば地が露わになる。そんなことを思いながら、読みました。はやくメッキはげが国民や全世界の人民の共通認識になって欲しいと願います。

 加えて、ヨハネ福音書8章冒頭の安息日の姦淫の箇所は、聖書で自分の好きなところの一つです(ほかはアブラハムが自分の息子を神に生け贄に捧げようとするところとか、ルツ記とか)。しかし、現代ではパロディになってしまうほど、人間は原罪を忘れてしまっているのでしょう。
 しかし、そんな古代のユダヤ人でさえも、イエスを十字架にかけてしまうのだから、ムードに流されてしまうと人間は個々では何と弱いのか、とも思います。
 私自身はキリスト者でも何でもないのですが、『聖書』の言葉や預言者やイエスや使徒たちの行動には感動を覚えるものがあり、『論語』などと同じく、現代にも十分生かせるものもあるのでは、と感じています。それを「信仰」にして例外抜きの金科玉条にしてしまうのは危険ですが。

 キリストのその箇所も感動的ですが、私は神による罰と恩恵という話では、ギリシャ神話のアテナとアラクネの話を思い出します。アラクネは織物が得意な娘でしたが、その能力を過信し、自慢するところがありました。それを見かねたアテナは(自分の感情を抑えて)、老婆に化けてアラクネに注意を促しますが、一向に反省しないアラクネに対し、織物勝負を挑むことになりました。
 結果、優劣つけがたいものになりましたが、神々のあられもないところばかりをタペストリーにしたアラクネの作に、アテナは「恥を知れ」と罵り、自分の作ったものを改めて見たアラクネはそのことを恥じて、自殺しました。さすがに哀れに思ったアテナは、アラクネを復活させますが、罰は罰として彼女を蜘蛛に転生させました。
 森会長の言葉を曲解した人々が、アラクネのように自分のしたことを恥じる日が来て欲しいです。

 上記のようなことを記しましたが、いちおう申しておきます。「弁護」・「弁論」の「弁」はもともと「言」のある「辯」であり、道理の通ったことを言うであって、何かを分ける、「わきまえる」ではないです。「弁理」・「弁別」の「弁」の方が「辨」で「刀」で意見をわける、すなわち「わきまえる」です。「辯」・「辨」、それと花瓣(花弁)の「瓣」(こっちは中が「瓜」)は文字が似ているし、意味も似ているということで、形のよく似た「弁」で代用されてしまっているのですが、こういうところにも日本語を混乱させてしまっている部分があるのかな、と自分は感じます。

No.233 43ヶ月前

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