Dr.U のコメント

>>138 >>131
T.K.さま
 ウサギです。コメントをありがとうございます。
 おっしゃる通りですね。日本とは異なり、世界の多くの地域では、多種多様な人種・民族・宗教が混ざり合い、ときに激しく衝突し、摩擦を起こす中で、社会が形成されていきました。そのような社会では、人は自分の生命や財産や生き方を守るためには、明確な言葉や行動によって、自分の権利を主張しなければなりません。日本のように、黙っていても相手は気持ちを察してくれるだろう(察するべきだ)と期待できるような、生温い社会ではありません。
 いま私は、キング牧師についての、ある本を読んでいたところでした。その本に、H・D・ソローという19世紀の学者の名前が出てきます。この人は、後にガンディーやキング牧師など世界の抵抗運動指導者に大きな影響を与えた「市民的不服従」という論文を書いたらしい。そこでソローは、個人の倫理と責任を強調し、たとえ法であっても自らの良心と相容れないのであれば、それを破るべきだと主張したといいます。
 従うべきではない、を通り越して、破るべきだと。ソローさん、強烈ですね。
 そういえば、《ピーチ航空》や《共通テスト》でマスク着用を拒否した人たちに対してなされた批判の中で多かったのが、マスク着用はルールとして定められていたのだから、いかなる事情があろうともルールを破ったのは怪しからん、というものでした。こうした批判をする人に対して、「たとえルールであっても、良心に相容れないならば、破るべきなのだ!」と言い返したなら、彼らは目を白黒させることでしょうね。
 ローザ・パークスさんも、おそらくは、これくらいの気迫で、バスの中で白人に席を譲ることを拒否したではないでしょうか。ここで黙っていたら、黒人への差別全体を認めることになる。今、この場所が、戦いのときだ、と腹を決めたのでしょう。大げさな言い方をすれば、彼女はそこに《生死をかけていた》かもしれない。
 翻って、《ピーチ航空》や《共通テスト》でマスク拒否した人たちは、どうだったか? 彼らに、パークスさんくらいの気迫はあったか? 今、自分は、大きな《公》を背負って闘っているのだ、という自覚はあったか? こうした点について、おそらく小林先生は、疑問を抱いていらっしゃるのではないでしょうか
 それともう一点。より大きな《公》のためには、涙を飲んで、小さな《公》を犠牲にしなければいけない状況もある、ということ。ゴー宣のイベントのとき、マスクを付けて会場に来てくれ、とおっしゃっていたのは、そういうことだろうと私は理解しました。
 以上、ウサギでした。
 

No.140 47ヶ月前

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