昔の記事を引っ張り出してしまったことをお詫びします。(_ _) しかし、ここには当時TVとネットの関係について自分がどう思っていたか、それと現状がどうであるのか、考察する点があるような気がしたのです。 ちなみに、その掲示板から脱会し、再びこちらのコメント欄に参加するまで、かなりのブランクがあります。昔のことはもうこだわらないようにしていますし、ほかの人の迷惑になるような記事は引用しません(今回の返信者は既に過去の人になっています)。 すこしはやいですが、ライジング感想です。 ゴーマニズム宣言・第395回「テレビと言論の自由の話」 上記の話で記しましたが、TVにはTVの「立場」や「思潮」があり、マスコミは新聞社と提携しており、YouTubeも親会社があるのだから、ある意味、思想界はそれ自体がコンツェルンを形成しているのだから、立場を越えて意見を掲載するのはよほどの勇気と胆力が必要で、フジ産經グループのSPA!や、講談社系列の光文社発行のFLASHや、毎日新聞系のエコノミストが先生の意見を載せてくれるのは、ある意味凄いことなのではないか、と自分も思っています。対立意見を載せるにしても、その雑誌やTV・ラジオ局の主調の意見を際立たせるためであり、一種の添え物であって、公正さや平等さを装った「擬態」「欺瞞」でしかないのでしょうか(またまた述べますが「こどものおもちゃ」でも雑誌のいんちき記事で紗南ちゃんが困る場面がありましたし)。 出版にも、その社の方針に沿ったもの、というガイドラインはあり、完全な意味での自己主張をするのなら、島崎藤村の「破戒」のように自主出版でもするしかないのでしょう。それでも、書籍の場合は売れて、その意見がひろく世間に流布すれば、それで商売になるのだから、とりあえずは実績のある作家の著作は出してみよう、書店で取り扱ってみようということになるのだろうと思います。小説初心者であった高木彬光「刺青殺人事件」初版も、「江戸川乱歩のお墨付き」で、雑誌「宝石」増刊という扱いで世に公表されているのです(それにしたって、今回の「コロナ論」初版本の書店での扱いは、ひどすぎたと思います)。 言論の自由と単純に言いますが、同じ事を述べても、人物によって、評価や印象はかなり異なります。イソップの羊番の少年が狼の到来を叫んでも、日頃の嘘がたたって、誰も信用しませんでした。自分の述べていることも、そういうことなのではないか、と思うこともよくあります。かりにコロナウイルスが危険ではない、と叫んでも職場での実績や信用を基準や尺度にされますし、「意見が正しいか否か」よりも「まわりの環境を維持する」ことの方が優先されます。そう考えると、以前「日本死ね」の投稿をインターネットにした人の場合は、よほど運が良かったのか、あるいはみんなが思っていたことを代弁したのか、ということになるのかも知れないです。 本当に自由に意見を述べるなら、出世するしかない、社会での地位を高めるしかないのでしょう。しかし、その本来発言力が重い立場にいる人たちが無責任な放言をし、自己の言動に責任を持たないし、取らない。そこに現代の日本の病理があるような気がします。 自己の意見に命を賭ける人、約束を守る人が責任ある立場になって欲しいと願います。 木蘭さんの方はまた後になるのですが、御諒承下さい。
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昔の記事を引っ張り出してしまったことをお詫びします。(_ _)
しかし、ここには当時TVとネットの関係について自分がどう思っていたか、それと現状がどうであるのか、考察する点があるような気がしたのです。
ちなみに、その掲示板から脱会し、再びこちらのコメント欄に参加するまで、かなりのブランクがあります。昔のことはもうこだわらないようにしていますし、ほかの人の迷惑になるような記事は引用しません(今回の返信者は既に過去の人になっています)。
すこしはやいですが、ライジング感想です。
ゴーマニズム宣言・第395回「テレビと言論の自由の話」
上記の話で記しましたが、TVにはTVの「立場」や「思潮」があり、マスコミは新聞社と提携しており、YouTubeも親会社があるのだから、ある意味、思想界はそれ自体がコンツェルンを形成しているのだから、立場を越えて意見を掲載するのはよほどの勇気と胆力が必要で、フジ産經グループのSPA!や、講談社系列の光文社発行のFLASHや、毎日新聞系のエコノミストが先生の意見を載せてくれるのは、ある意味凄いことなのではないか、と自分も思っています。対立意見を載せるにしても、その雑誌やTV・ラジオ局の主調の意見を際立たせるためであり、一種の添え物であって、公正さや平等さを装った「擬態」「欺瞞」でしかないのでしょうか(またまた述べますが「こどものおもちゃ」でも雑誌のいんちき記事で紗南ちゃんが困る場面がありましたし)。
出版にも、その社の方針に沿ったもの、というガイドラインはあり、完全な意味での自己主張をするのなら、島崎藤村の「破戒」のように自主出版でもするしかないのでしょう。それでも、書籍の場合は売れて、その意見がひろく世間に流布すれば、それで商売になるのだから、とりあえずは実績のある作家の著作は出してみよう、書店で取り扱ってみようということになるのだろうと思います。小説初心者であった高木彬光「刺青殺人事件」初版も、「江戸川乱歩のお墨付き」で、雑誌「宝石」増刊という扱いで世に公表されているのです(それにしたって、今回の「コロナ論」初版本の書店での扱いは、ひどすぎたと思います)。
言論の自由と単純に言いますが、同じ事を述べても、人物によって、評価や印象はかなり異なります。イソップの羊番の少年が狼の到来を叫んでも、日頃の嘘がたたって、誰も信用しませんでした。自分の述べていることも、そういうことなのではないか、と思うこともよくあります。かりにコロナウイルスが危険ではない、と叫んでも職場での実績や信用を基準や尺度にされますし、「意見が正しいか否か」よりも「まわりの環境を維持する」ことの方が優先されます。そう考えると、以前「日本死ね」の投稿をインターネットにした人の場合は、よほど運が良かったのか、あるいはみんなが思っていたことを代弁したのか、ということになるのかも知れないです。
本当に自由に意見を述べるなら、出世するしかない、社会での地位を高めるしかないのでしょう。しかし、その本来発言力が重い立場にいる人たちが無責任な放言をし、自己の言動に責任を持たないし、取らない。そこに現代の日本の病理があるような気がします。
自己の意見に命を賭ける人、約束を守る人が責任ある立場になって欲しいと願います。
木蘭さんの方はまた後になるのですが、御諒承下さい。