毎回遅くなりますが、今号の感想です。 ゴーマニズム宣言・第393回「日本学術会議事件の裏の問題」 記事を読んでいて思ったことは2点で、まづ、日本は戦争中に負けたのではなく、戦後に負けたのではないか、と思うことで、それはGHQの教育を称した洗脳によるものだけれども、日本人みづからが考えることを放棄し、人任せにして、後回しにしてしまった結果なのではないか、というふうに感じました。その点では、名作「最期の授業」で先生が語った後悔の言葉とリンクする部分があるのでは、とも(あの話がアルザスの地域的事情を考慮していない、フランスの国威昂揚のために描かれたフィクションだとしても)。 第2点は、そのみづから考えてこなかったということが、今のコロナウイルスへの必要以上の恐慌状態・マスク真理教にも繋がっており、すべてはおかみに任せておけば良いのだ、という日本人の人任せ主義・集団協調の思想をよく現しているのだと言えるのではないか、ならば自分の頭で考える国民にするにはどうすれば良いのか、そのようにしない限り、同じ愚を何度も繰り返し、日本人そのものが消滅するのではないか、そんなことを思いました。 と言葉では簡単に書きますが、個人的なことをまた記しますが自分も部屋のかたづけなど、自分の頭では対処しきれないことばかりで、人のことをあれこれ言える立場ではない、という気もします。ただ、(自分にないものを自分で作り出すのは不可能なのだから)そういう場合に「人任せ」にしたり、誰かに従属したり誰かをあてにしたりするのではなく、「利用する」のだといった、自己の「主体性」を忘れないようにしないと駄目だ、そうしないとウォルフレンとかアトキンソンとかいう「お雇い外国人」の思うがままになり、ますます劣化の道を歩むのではないか、と思います。 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第187回「免疫ブーストの話と、今年5月のコロナ死者の件」 免疫と言うことで思いだした話があり、とある水族館のイルカショーで観客がイルカに話しかけたらどうなるのか、という実演をしたことがあり、「あれは多分やらせだろう」と言った人が、別の人から「夢を壊された」と非難されたという話を聞いたことがあります・これも一種の「免疫」の話ではないか、と思うのですが、どうしょうか。つまり、純粋培養で育った人は、自分の考えに反する思想や意見を受け入れない、受け入れるのに抵抗する、といった例だと思うのです(その皮肉屋の言った言葉もどうかと思いますが)。 夢を持つこと自体は自分は否定しません。その夢から自分の指針が生まれる場合もあるし、理想が生まれることもあるでしょう。しかし、コインには表と裏があるように、理想や夢には現実もあり、それらは表裏一体でどちらが一方にかたよってしまっては駄目だ、ということなのではないか、と思うのです(つまり、現実主義だけでは駄目で、両者あわせもたないといけない、ということです)。 理系関係のことはよく分かりませんが、子供の水疱瘡に大人が感染することを繰り返すことで免疫を得て行くといった作業は、イルカショーの夢を壊すことではなく、イルカショーの現実を見た上で、さらなるイルカと人間の理解はあり得ないか、という理想へと繋げる作業のようなものではないか、とすこし見当違いなことを述べておきます。その話から離れたとしても、人間の経験智による伝統は、科学という進歩を越えたものがあるのではないか、と思いました。 そして、人間が不老不死になるというのも理想なのかも知れませんが、現実には生命は必ず死ぬのであって、そのことを恐れるだけではなく、受け入れる覚悟も必要なのだろうと思います。 (木蘭さんの感想も加え、すこし修正しました)
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毎回遅くなりますが、今号の感想です。
ゴーマニズム宣言・第393回「日本学術会議事件の裏の問題」
記事を読んでいて思ったことは2点で、まづ、日本は戦争中に負けたのではなく、戦後に負けたのではないか、と思うことで、それはGHQの教育を称した洗脳によるものだけれども、日本人みづからが考えることを放棄し、人任せにして、後回しにしてしまった結果なのではないか、というふうに感じました。その点では、名作「最期の授業」で先生が語った後悔の言葉とリンクする部分があるのでは、とも(あの話がアルザスの地域的事情を考慮していない、フランスの国威昂揚のために描かれたフィクションだとしても)。
第2点は、そのみづから考えてこなかったということが、今のコロナウイルスへの必要以上の恐慌状態・マスク真理教にも繋がっており、すべてはおかみに任せておけば良いのだ、という日本人の人任せ主義・集団協調の思想をよく現しているのだと言えるのではないか、ならば自分の頭で考える国民にするにはどうすれば良いのか、そのようにしない限り、同じ愚を何度も繰り返し、日本人そのものが消滅するのではないか、そんなことを思いました。
と言葉では簡単に書きますが、個人的なことをまた記しますが自分も部屋のかたづけなど、自分の頭では対処しきれないことばかりで、人のことをあれこれ言える立場ではない、という気もします。ただ、(自分にないものを自分で作り出すのは不可能なのだから)そういう場合に「人任せ」にしたり、誰かに従属したり誰かをあてにしたりするのではなく、「利用する」のだといった、自己の「主体性」を忘れないようにしないと駄目だ、そうしないとウォルフレンとかアトキンソンとかいう「お雇い外国人」の思うがままになり、ますます劣化の道を歩むのではないか、と思います。
泉美木蘭のトンデモ見聞録・第187回「免疫ブーストの話と、今年5月のコロナ死者の件」
免疫と言うことで思いだした話があり、とある水族館のイルカショーで観客がイルカに話しかけたらどうなるのか、という実演をしたことがあり、「あれは多分やらせだろう」と言った人が、別の人から「夢を壊された」と非難されたという話を聞いたことがあります・これも一種の「免疫」の話ではないか、と思うのですが、どうしょうか。つまり、純粋培養で育った人は、自分の考えに反する思想や意見を受け入れない、受け入れるのに抵抗する、といった例だと思うのです(その皮肉屋の言った言葉もどうかと思いますが)。
夢を持つこと自体は自分は否定しません。その夢から自分の指針が生まれる場合もあるし、理想が生まれることもあるでしょう。しかし、コインには表と裏があるように、理想や夢には現実もあり、それらは表裏一体でどちらが一方にかたよってしまっては駄目だ、ということなのではないか、と思うのです(つまり、現実主義だけでは駄目で、両者あわせもたないといけない、ということです)。
理系関係のことはよく分かりませんが、子供の水疱瘡に大人が感染することを繰り返すことで免疫を得て行くといった作業は、イルカショーの夢を壊すことではなく、イルカショーの現実を見た上で、さらなるイルカと人間の理解はあり得ないか、という理想へと繋げる作業のようなものではないか、とすこし見当違いなことを述べておきます。その話から離れたとしても、人間の経験智による伝統は、科学という進歩を越えたものがあるのではないか、と思いました。
そして、人間が不老不死になるというのも理想なのかも知れませんが、現実には生命は必ず死ぬのであって、そのことを恐れるだけではなく、受け入れる覚悟も必要なのだろうと思います。
(木蘭さんの感想も加え、すこし修正しました)