今回の感想です。 よしりん先生が、大久保利通を嫌う理由がよく分かりました。私も情緒的な人間なので、彼が最後に西郷からの手紙を読んでいた、という話をよく解釈したいと思うのですが、(かりに)動機としては正しくても、過程や結果において道から外れてしまった行為は、決して褒められたり、賞讃されたりしてはならない。それに、人間はそんなに綺麗な心だけを持って行動するとは限らないし。難癖をつけて、さまざまな嫌がらせをしたり、それを抗議すると、今度は自分が嫌がらせをされた、と言ってくる場合もあったりする。具体的には記しませんが。 この光田健輔という人も、当初は善意で、世の中をよくしたいという思いで行動したのだと信じたいです。しかし、その結果が他者の忠告に耳を傾けず、ひたすら人や自分を不幸にするものだったら、それは自殺行為と言って差し支えないでしょう。 思い込みで行動してしまった、と言えばこういうことがあります。もう大分時間がたっているから、少し詳しく記してもいいかも知れない。 以前、自分は塾講師のアルバイトを掛け持ちしていたのですが、ディスレクシアの子を担当したことがあります。ちょうど同じ頃、別の塾で漢字が書けないという子供を担当したこともあり、自分はその2つをかなりごちゃごちゃにしていました。識字障碍をよく知らなかった、ということもあります(自分を担当していたカウンセラーの先生も、識字障碍のことをよく知らず、はっきりした答えをくれませんでしたし、かつて教師をしていた親に聞いても、そういう事例を知らなかったようです)。 恐らく、後者の例はADHDだったのだろうと、今になってみると思うのですが、全く同じ指導の仕方をしていました。パソコンのワープロソフトで、文字を白抜きにして、なぞらせるという。これも、かなり考えに考えたあげく、思いついたことなのですが、そこから先へ行けなかった。結局、どっちも中途半端に終わってしまい、後者の子は別の塾にうつってしまい、前者の子は進学に失敗してしまった。そんなことをしているから、どちらの塾も結局やめる、あるいはやめさせられる結果になりました。 何かをこうだ、と思いこんでしまうことはとても恐ろしいことだと思います。実は、以前の民進党解党騒ぎの時、自分はこれは「おんな城主直虎」と同じことをしているのだと思いこんでいました。先にコメント欄で直虎のことを書きましたが、『直虎』では武田と徳川の侵掠を同時に受けた井伊家は今川家から独立するために、一度消滅し、徳川の庇護のもとに復活する、という奇策を用いたことになっていました。 これは失敗し、小野政次がはりつけになって犠牲になり、井伊家は消滅する、という物語になっていましたが、民進党はこの井伊谷の人々と同じで、希望の党に合流し、何らかの手段を用いて復活するのだろう、前原氏はそういうことを考えているのだろう、という妄想を頭に描いていました。これは妄想で終わっているので、誰の迷惑にもなっていないと思うのですが、これを例えば誰かの政治家の先生に話したら、どう思われたことだろうと今になって恐ろしく思います。きっと頭の変な人、みたいな扱いを受けたのかも知れないです。そして、そのことを自分自身はまるで感じず、何かの智慧を披露したみたいに感じている。これほど裸の王様で、滑稽なことはない、と思います。 自分はこういう場に投稿している場合、なるべく感情に流されないように、論理的に考えようとしているつもりなのですが、人個人の経験や思考の違い、から何らかの先入観や願望が論理に交じってしまうことは避けられないかも知れないと思うのです。 ハンセン病の話から離れてしまいましたが、他者の意見だけを聞く、というのも問題ありかも知れませんが、自分の主観的な思いや思考だけで暴走してしまうのも危険だ、ということは心得ておいた方がいい、と思います。それが自分の範囲ですむのならともかく、他者や周囲にまで影響を及ぼしてしまうのだったら、それは自分だけの問題ではすまないわけですし。こんなことを投稿している時点で、もう手遅れなのかもしれないけれども、客観性を持たないと、主観はただのひとりよがりに堕してしまうのだ、と言っておきます。そして、それを信奉してしまう人間が多数集まってしまうと、自分だけの問題では終わらなくなるのだろう、歴史における宗教の弾圧や虐殺が起こる要因にはこんなところにあるのだろう、と。 人は一人では生きられないのかも知れないです。良い意味でも悪い意味でも。自己の信念を持ちつつ、他者の意見を無視せず、常に客観性を保つ。言うはたやすいですが、行うには難し、でしょう。しかし、そうしないと、ひとりよがりの暴走で周囲を巻き込んで、悪い意味で人間が群体であることを証明するか、あるいは単体で孤立するかのどちらかになるのでしょう。 少し難しく記してみました。もっと告白しないといけないような思い込みによる失敗談は、いっぱい自分にはあります。ただ、正直聞いていていい感じはしないでしょうし、自分も思い出したくないので、こんな感じにしておきます。 ハンセン病の本を読んだ感想なども記したかったのですが、まだ読了してはおらず、時間の関係でなかなか進まないので、「元患者の中には、政府のやったことが間違っているとは思っていない人もいる」と谺さんというかたが語っていたのに、複雑な思いがしたと述べておきます(その本には玉川が騒いでいた「感染症法」第19条の知事による強制入院のことものっています)。癩病(ハンセン病)で人間を隔離するのは、してはならないことです。 長くなってしまったので、木蘭さんの方は、また改めて。
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今回の感想です。
よしりん先生が、大久保利通を嫌う理由がよく分かりました。私も情緒的な人間なので、彼が最後に西郷からの手紙を読んでいた、という話をよく解釈したいと思うのですが、(かりに)動機としては正しくても、過程や結果において道から外れてしまった行為は、決して褒められたり、賞讃されたりしてはならない。それに、人間はそんなに綺麗な心だけを持って行動するとは限らないし。難癖をつけて、さまざまな嫌がらせをしたり、それを抗議すると、今度は自分が嫌がらせをされた、と言ってくる場合もあったりする。具体的には記しませんが。
この光田健輔という人も、当初は善意で、世の中をよくしたいという思いで行動したのだと信じたいです。しかし、その結果が他者の忠告に耳を傾けず、ひたすら人や自分を不幸にするものだったら、それは自殺行為と言って差し支えないでしょう。
思い込みで行動してしまった、と言えばこういうことがあります。もう大分時間がたっているから、少し詳しく記してもいいかも知れない。
以前、自分は塾講師のアルバイトを掛け持ちしていたのですが、ディスレクシアの子を担当したことがあります。ちょうど同じ頃、別の塾で漢字が書けないという子供を担当したこともあり、自分はその2つをかなりごちゃごちゃにしていました。識字障碍をよく知らなかった、ということもあります(自分を担当していたカウンセラーの先生も、識字障碍のことをよく知らず、はっきりした答えをくれませんでしたし、かつて教師をしていた親に聞いても、そういう事例を知らなかったようです)。
恐らく、後者の例はADHDだったのだろうと、今になってみると思うのですが、全く同じ指導の仕方をしていました。パソコンのワープロソフトで、文字を白抜きにして、なぞらせるという。これも、かなり考えに考えたあげく、思いついたことなのですが、そこから先へ行けなかった。結局、どっちも中途半端に終わってしまい、後者の子は別の塾にうつってしまい、前者の子は進学に失敗してしまった。そんなことをしているから、どちらの塾も結局やめる、あるいはやめさせられる結果になりました。
何かをこうだ、と思いこんでしまうことはとても恐ろしいことだと思います。実は、以前の民進党解党騒ぎの時、自分はこれは「おんな城主直虎」と同じことをしているのだと思いこんでいました。先にコメント欄で直虎のことを書きましたが、『直虎』では武田と徳川の侵掠を同時に受けた井伊家は今川家から独立するために、一度消滅し、徳川の庇護のもとに復活する、という奇策を用いたことになっていました。
これは失敗し、小野政次がはりつけになって犠牲になり、井伊家は消滅する、という物語になっていましたが、民進党はこの井伊谷の人々と同じで、希望の党に合流し、何らかの手段を用いて復活するのだろう、前原氏はそういうことを考えているのだろう、という妄想を頭に描いていました。これは妄想で終わっているので、誰の迷惑にもなっていないと思うのですが、これを例えば誰かの政治家の先生に話したら、どう思われたことだろうと今になって恐ろしく思います。きっと頭の変な人、みたいな扱いを受けたのかも知れないです。そして、そのことを自分自身はまるで感じず、何かの智慧を披露したみたいに感じている。これほど裸の王様で、滑稽なことはない、と思います。
自分はこういう場に投稿している場合、なるべく感情に流されないように、論理的に考えようとしているつもりなのですが、人個人の経験や思考の違い、から何らかの先入観や願望が論理に交じってしまうことは避けられないかも知れないと思うのです。
ハンセン病の話から離れてしまいましたが、他者の意見だけを聞く、というのも問題ありかも知れませんが、自分の主観的な思いや思考だけで暴走してしまうのも危険だ、ということは心得ておいた方がいい、と思います。それが自分の範囲ですむのならともかく、他者や周囲にまで影響を及ぼしてしまうのだったら、それは自分だけの問題ではすまないわけですし。こんなことを投稿している時点で、もう手遅れなのかもしれないけれども、客観性を持たないと、主観はただのひとりよがりに堕してしまうのだ、と言っておきます。そして、それを信奉してしまう人間が多数集まってしまうと、自分だけの問題では終わらなくなるのだろう、歴史における宗教の弾圧や虐殺が起こる要因にはこんなところにあるのだろう、と。
人は一人では生きられないのかも知れないです。良い意味でも悪い意味でも。自己の信念を持ちつつ、他者の意見を無視せず、常に客観性を保つ。言うはたやすいですが、行うには難し、でしょう。しかし、そうしないと、ひとりよがりの暴走で周囲を巻き込んで、悪い意味で人間が群体であることを証明するか、あるいは単体で孤立するかのどちらかになるのでしょう。
少し難しく記してみました。もっと告白しないといけないような思い込みによる失敗談は、いっぱい自分にはあります。ただ、正直聞いていていい感じはしないでしょうし、自分も思い出したくないので、こんな感じにしておきます。
ハンセン病の本を読んだ感想なども記したかったのですが、まだ読了してはおらず、時間の関係でなかなか進まないので、「元患者の中には、政府のやったことが間違っているとは思っていない人もいる」と谺さんというかたが語っていたのに、複雑な思いがしたと述べておきます(その本には玉川が騒いでいた「感染症法」第19条の知事による強制入院のことものっています)。癩病(ハンセン病)で人間を隔離するのは、してはならないことです。
長くなってしまったので、木蘭さんの方は、また改めて。