希蝶 のコメント

 木蘭さんの記事の感想です。

 以前、歴史読本の増刊で、徳川・松平一族の系図を見たことがあるのですが、その中にしばしば「御血荒」という言葉が出てきます。すなわち、「流産した子供」のことを指すのですが、生まれて来なかった子供についても「ちあれ」という言葉で表現していることに感嘆し、同時にその表現から生々しいものを感じました。
 私も子供がどのようにして生まれてくるか、思春期になるまでよく知らなかったし、今でも未知の領域ですが、話を聞いた限りでは、生々しくて恐ろしい状態なんだろう、と想像します。
 同時に、貧困のために折角生まれてきた子供を「間引き」しなければならなかった過去の時代の母親の気持ちも、非常に気の毒なものだったのだろう、とも推察します。

 現代、木蘭さんの記事にあるように、出産を代理で、商売で行う人がいる事実には隔世の感があります。その人たちは自分どころが、その生み出されるいのちさえも失うかも知れない、という覚悟を持って、その「作業」を実行しているのでしょうか。「間引き」というやむを得ぬ「殺人」が許容されていた時代のことを理解し、自身の体を提供しているのでしょうか。その認識があるのだとしたら、とても尊敬すべき、素晴らしいことでしょう。
 しかし、結果としては「代理母制度」は、そうした出産の重みを「軽い」ものにしてしまっているように感じられます。不妊症の母親のために、人工授精した卵子や精子を宿し、出産を可能にする。「ビジネス」でないと元は取れないわけで、そのことが生命の「神秘」を世俗の「利害」におとしめているように感じられます。

 前に「こどものおもちゃ」を例に出したことがありますが、「出産」とは母親にとって、いのちをかけても惜しくはないほど神聖なものであり、それを誰かに肩代わりして貰うのは「能力」の問題ではなく、「倫理」の次元の話であって、あるまじきことだろうと思いました。
 このテーマに関連して、男が種で女が畑とか主張するやからに尋ねてみたいのですが、出産は母子ともに命がけの所業である、ということが分かって言っているのでしょうか。出産とは「セレンディピティー」であり、「盲亀浮木」であって、「あるかなきかの僥倖」・「もっけの幸い」であり、ただの「妊娠」とも分けて考えないといけないようにも思えます。

No.37 51ヶ月前

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