今週も配信ありがとうございます。 『バリバラ』の部落差別特集、テレビ欄で見かけていたけど、「何か重そうだな」と感じて見なかった(録画しなかった)ということを告白します。 見れば良かったですね。 映像を通して当事者の声を聞くというのは、文章とはまた異なる説得力があるものだと思います。 昔は「差別と区別は違う」という言い方がまことしやかに広まっていましたが、その「区別」の中に「血」や「民族」も含まれているのだとすれば、それが差別へと発展する考え方になるのだということですね。 ところで前号のコメント欄で、毎日新聞の読者投稿欄「みんなの広場」にて私の投稿文が採用された、とお知らせをさせていただきましたが、先日無事掲載されました。 位置的に一番右上――トップ扱いになるんでしょうか(嬉)――でした。 「「桜」執着の野党に失望」というタイトルになっています。 その左に「議論停滞は安倍首相に責任」というタイトルで、「桜」の議論を続けざるを得ないのは安倍自民の責任との投稿文が掲載されていますが、私の投稿文がそれよりも右に掲載されるという扱いでした。 左派寄りでほとんど野党を批判しない毎日新聞が、こうした掲載順を選んだ、というのは私としては「してやったり」という感覚です。 ただし! そもそもこの投稿文が採用されるとは全く思っていませんでした。 毎日新聞の読者としては少数意見かもしれないけど、このように考える読者もいるんだよということを担当者に知ってもらい、それが今後の紙面構成に生かしてもらいたい、という希望的観測のレベルで投稿しただけでした。 採用を狙った「欲」がなかった分、文章が読みやすくまとまったのかもしれません。 そういう意味では、嬉しい感情はありますが、「快感」を覚えて「さあ、また書いてやろう」と企む感覚は一切ありません。 嬉しかったのは、これを読んだ方からの感想です。 私の母親の友人は驚いて母親に電話をかけてきて、 「よくぞ言ってくれた」 と激賞して下さりました。 加えて、 「私らのような一市民の意見が、こんな風に扱われることもあるんやねえ」 と感激されていたとのことです。 新聞に投稿する人は、決して投稿マニアや国会ウォッチャーや運動家ばかりではない、普段は「物言わぬ市民」であっても公憤や義憤を感じたら声を上げて良いのだ、ということを体現できたかなと思います。 ヴォーカルマジョリティの実現へのささやかな一助になれば幸いです。 また、今回の一件で、プロが定めた水準に則って自らの言論が採用されることの意義についても考えるところがありました。 水準に満たない言論を削除したりボツにするのは、内容のクオリティを保つために当然必要な編集行為です。 しかし、ネットにはそれがありません。 アンチはその感覚でこちらのコメント欄に書き込むため、削除されると「言論封殺」と騒ぎます。 彼らはプロの言論媒体というものを理解していないし、価値の順列という概念も持っていないのだということがよく分かりました。
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今週も配信ありがとうございます。
『バリバラ』の部落差別特集、テレビ欄で見かけていたけど、「何か重そうだな」と感じて見なかった(録画しなかった)ということを告白します。
見れば良かったですね。
映像を通して当事者の声を聞くというのは、文章とはまた異なる説得力があるものだと思います。
昔は「差別と区別は違う」という言い方がまことしやかに広まっていましたが、その「区別」の中に「血」や「民族」も含まれているのだとすれば、それが差別へと発展する考え方になるのだということですね。
ところで前号のコメント欄で、毎日新聞の読者投稿欄「みんなの広場」にて私の投稿文が採用された、とお知らせをさせていただきましたが、先日無事掲載されました。
位置的に一番右上――トップ扱いになるんでしょうか(嬉)――でした。
「「桜」執着の野党に失望」というタイトルになっています。
その左に「議論停滞は安倍首相に責任」というタイトルで、「桜」の議論を続けざるを得ないのは安倍自民の責任との投稿文が掲載されていますが、私の投稿文がそれよりも右に掲載されるという扱いでした。
左派寄りでほとんど野党を批判しない毎日新聞が、こうした掲載順を選んだ、というのは私としては「してやったり」という感覚です。
ただし!
そもそもこの投稿文が採用されるとは全く思っていませんでした。
毎日新聞の読者としては少数意見かもしれないけど、このように考える読者もいるんだよということを担当者に知ってもらい、それが今後の紙面構成に生かしてもらいたい、という希望的観測のレベルで投稿しただけでした。
採用を狙った「欲」がなかった分、文章が読みやすくまとまったのかもしれません。
そういう意味では、嬉しい感情はありますが、「快感」を覚えて「さあ、また書いてやろう」と企む感覚は一切ありません。
嬉しかったのは、これを読んだ方からの感想です。
私の母親の友人は驚いて母親に電話をかけてきて、
「よくぞ言ってくれた」
と激賞して下さりました。
加えて、
「私らのような一市民の意見が、こんな風に扱われることもあるんやねえ」
と感激されていたとのことです。
新聞に投稿する人は、決して投稿マニアや国会ウォッチャーや運動家ばかりではない、普段は「物言わぬ市民」であっても公憤や義憤を感じたら声を上げて良いのだ、ということを体現できたかなと思います。
ヴォーカルマジョリティの実現へのささやかな一助になれば幸いです。
また、今回の一件で、プロが定めた水準に則って自らの言論が採用されることの意義についても考えるところがありました。
水準に満たない言論を削除したりボツにするのは、内容のクオリティを保つために当然必要な編集行為です。
しかし、ネットにはそれがありません。
アンチはその感覚でこちらのコメント欄に書き込むため、削除されると「言論封殺」と騒ぎます。
彼らはプロの言論媒体というものを理解していないし、価値の順列という概念も持っていないのだということがよく分かりました。