希蝶 のコメント

 今回は、少し頭の整理ができなかったようなので、もっと簡潔に(先に投稿したのも、あれでも真剣に記したものなので、残しておきます)。「差別」とかの話になると、どうも感情的になってしまいます(自分の場合は、自業自得の面もあるのかも知れませんが)。

 私が「部落」というと、高木彬光先生の小説で、「死せる者よみがえれ」という短篇があるのを思い出すのですが、それは、部落出身で出自を隠しているとある小説家が、人妻と恋に陥り、その旦那の殺人事件に巻き込まれていく、という内容なのですが、学生の時この話を読んで、ありきたりの話になりますが、主人公が気の毒でたまらなかったし、その人妻が部落出身ということで主人公を受け入れたという姿に心を動かされるものを感じました。推理小説なのだから、その先の展開はいちおうあるのだけれども。

 この話が元になって、長篇「破戒裁判」が描かれています。私にとって、部落というと、本家「破戒」よりも、この2作になります。

 人間は「血」というものに何か執着があるのではないか、と私は感じています。それは人間が高度な知性を有していることから生じる負の側面で(あるいは「本能」なのかもしれない)、「自分」を直接に伝えられるものだからでしょう。不老不死が不可能であるがために、自分の遺伝子を後世に伝え、いわば永遠の生命を欲しているがゆえの宿命なのではないか、と思います。そのことが、生まれとか血筋とか、人工授精とかに繋がっているように思うのです。

 それはある時代においてはコミュニティーを保護・維持する作用を果たしていたように思えますが、同時に自分たちとは異なった集団を排除する、という弊害をも内包するものであったのだろうという気がします。私たちが個として真に自立するためには、血の縛りから解放されて、LGBTも含めて、異質なものでも、その土地の空気を吸って生きようという意志があるのなら、それを認めて「国民は皆同胞である」という定義にのっとって、他者を受容することなのではないか、と思います(「人類皆兄弟」は歴史や風俗・文化の相違があるので、不可能だと思います)。

 しかし、それはとても厳しい、険しい道のりではないか、とも感じます。私たちが心を相手に対して開く、といっても、どこまでの領域までが限度か、という問題が生まれると思いますし、意見の押しつけをしてはならないわけです。ただの附和雷同だったり、奇をてらったり、やたら反抗的だったりするのも駄目でしょうし。相手への思いやりがなければ駄目でしょうし、個の自立や決断、ということがポイントになるのでしょうか。世の中に絶対、ということはないでしょうし、だからといって、社会にとって正しいことはいくつも落ちているわけではないのでしょう。価値の優劣は確実に存在します。

 そのためにも、カウンター・デモクラシーや立憲主義を推進することと、皇位継承問題で、女性・女系天皇も可にすることが寛容かと思います。慰安婦問題のように、相手の非は非であるとも主張しないといけないでしょう。

 やはり少し堅めになってしまいました。(_ _)

 自分も私事ばかり記していますが、なるべく冷静に、公心のみをこのコメント欄に記さなければいけない、と思っています。それが、毎週このライジングを配信して下さるみなぼんさんや、寄稿して下さるよしりん先生や木蘭さんへの礼儀だろうと思います。

No.122 50ヶ月前

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