男系固執、中韓ヘイト、護憲といった「思考停止」の言論を吐く人たちって、恐らく「弱者」なのだろうな、と思います。 「社会的弱者」という意味ではなくて、自分に自信がなくて、他者の言論にすがりつかなければ生きていけない人、そうやって自分を「強者」もしくは並以上の人間と見せたい人なのだろう、と。 私自身がネトウヨだった時も、鬱病で休職しており、金も社会的地位もなく、向学心も向上心もない圧倒的な「弱者」だったわけですが、だからこそそんな弱さを認めたくないあまりに、ネトウヨ言論で他者を罵倒することに快感を覚えていたところがあります。 当人らは意識していないでしょうけど、自分たちが安住している「世間」に依存しちゃってるんでしょうね。 そこで自己承認欲求を満たせるというのもありますし、そもそも安住の地から外へ出る気概がない。 そんなリスクを冒したくないし、そういう発想そのものが生まれない。 何故なら、そこでしか生きられない「弱者」だから。 そして、「弱者」だからこそ、極端に恐怖心を煽る「カルト宗教」にハマりやすい。 倉山満が陥っているのは、まさにその領域だと思います。 皇室における「終末思想」ですよね。 「竹田研究会」で「おかげで救われた~」と涙を流す会員たちも同じか。 自分の本質的な弱さに気付いていない人たちって、怖い。 『民主主義という病い』の本編か、もしくはその当時の『ライジング』本編で、「知の富裕層」を目指せというような記述があったかと思います。 私はその言葉がずっと頭に残っていて、当時は途中で挫折した『社会契約論』を最近になって読了することができました。 「富裕層」にまでは到達しないでしょうけど、「目指す」こと自体は可能。 だから、何かを疑ってみるとか、「そもそも論」を追究してみるといったかたちで、学んでいくことが「富裕層」への第一歩なのだろう、と。 そうやっていって、実際には「中の上」あたりに到るのが御の字なのだとは思いますが、少なくとも「弱者」ではありません。 そういえば、あくまで体感レベルですが、電車内で読書をする人が実に僅かなレベルですが増えてきたように思います。 一心不乱に文庫本を読むパリピにしか見えないおにーちゃん、図書館で借りたであろう分厚いハードカーバを広げる中学生、本に数十箇所レベルで付箋貼りまくりの大学生――実際に見かけた人たちです。 こういう「光景」が日常に少しでも差し込むと、視覚的な印象が変わってきます。 旧来の多数派よりも、少数派の方が良いと感じる人が増えるかもしれない。 何しろ人間は「理屈」よりも「気持ち」で動くものだから。 なので、「見せつける」ようなスタンスで私も車内で本を読みまくっています。
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男系固執、中韓ヘイト、護憲といった「思考停止」の言論を吐く人たちって、恐らく「弱者」なのだろうな、と思います。
「社会的弱者」という意味ではなくて、自分に自信がなくて、他者の言論にすがりつかなければ生きていけない人、そうやって自分を「強者」もしくは並以上の人間と見せたい人なのだろう、と。
私自身がネトウヨだった時も、鬱病で休職しており、金も社会的地位もなく、向学心も向上心もない圧倒的な「弱者」だったわけですが、だからこそそんな弱さを認めたくないあまりに、ネトウヨ言論で他者を罵倒することに快感を覚えていたところがあります。
当人らは意識していないでしょうけど、自分たちが安住している「世間」に依存しちゃってるんでしょうね。
そこで自己承認欲求を満たせるというのもありますし、そもそも安住の地から外へ出る気概がない。
そんなリスクを冒したくないし、そういう発想そのものが生まれない。
何故なら、そこでしか生きられない「弱者」だから。
そして、「弱者」だからこそ、極端に恐怖心を煽る「カルト宗教」にハマりやすい。
倉山満が陥っているのは、まさにその領域だと思います。
皇室における「終末思想」ですよね。
「竹田研究会」で「おかげで救われた~」と涙を流す会員たちも同じか。
自分の本質的な弱さに気付いていない人たちって、怖い。
『民主主義という病い』の本編か、もしくはその当時の『ライジング』本編で、「知の富裕層」を目指せというような記述があったかと思います。
私はその言葉がずっと頭に残っていて、当時は途中で挫折した『社会契約論』を最近になって読了することができました。
「富裕層」にまでは到達しないでしょうけど、「目指す」こと自体は可能。
だから、何かを疑ってみるとか、「そもそも論」を追究してみるといったかたちで、学んでいくことが「富裕層」への第一歩なのだろう、と。
そうやっていって、実際には「中の上」あたりに到るのが御の字なのだとは思いますが、少なくとも「弱者」ではありません。
そういえば、あくまで体感レベルですが、電車内で読書をする人が実に僅かなレベルですが増えてきたように思います。
一心不乱に文庫本を読むパリピにしか見えないおにーちゃん、図書館で借りたであろう分厚いハードカーバを広げる中学生、本に数十箇所レベルで付箋貼りまくりの大学生――実際に見かけた人たちです。
こういう「光景」が日常に少しでも差し込むと、視覚的な印象が変わってきます。
旧来の多数派よりも、少数派の方が良いと感じる人が増えるかもしれない。
何しろ人間は「理屈」よりも「気持ち」で動くものだから。
なので、「見せつける」ようなスタンスで私も車内で本を読みまくっています。