感想のつづきです。 泉美木蘭の「トンデモ見聞録」・第140回「人にはいろんな生きざまがあるという話2」 獄妻さんの最後の手紙が恰好良い、凜々しいと感じました、というだけは単純なので、またまた漫画やアニメの例を出します。 「BLACK LAGOON」という作品で、その中に縁日が出てくる場面があるのです。 この作品自体、有名なので知っている方も多いでしょうが、念のため、話を紹介すると…。 ロックという日本人の主人公がラグーン商会という集団に拉致されて、本社の会社からも見捨てられて、以後、ラグーン商会とともにタイのロアナプラという都市で異法すれすれ(というか、犯罪そのもの)の商売をするようになる、という話ですが、その一エピソードの中に、相棒のレヴィという女ガンマンとともに、ロシア系のマフィア、バラライカの通訳として久しぶりに日本に帰国するというものがあります。その中で、レヴィが縁日に興味を示し、射的に興じるのですが、一等賞の景品が手に入らないとずるとしてもめ事になり、そこへ、縁日の主催者である鷲峰組の組長の忘れ形見である雪緒という少女と、そのボディガードである若頭代行の銀さんというキャラクターと知り合う、という場面があります。 私がヤクザと縁日というと、この話を真っ先に連想します。その後、バラライカの目的は組織の日本進出で、鷲峰組と対立状態になり、ロック・レヴィたちもその中にまきこまれてゆく、という筋です。この話の後日談も、木蘭さんの記されているように、トルコ人や韓国人の屋台(この場合だったら、タイ系やロシア系の屋台)が並んでいるのではないか、と想像しました(いや、ひょっとしたら、縁日自体が消滅しているのかもしれない)。 話のついでにあげるけれども「BLACK LAGOON」ではヘンデルとグレーテルのエピソードも悲惨な、残酷な話だったです。あれも時代が生んだ悲劇。 もっとも、こういう話を視聴しただけで、分かった気分になってはいけないのだ、とも思っています。先に「文学少女」という話を紹介しましたが、それだって、昭和初期の話を、現代人の感覚で完全に理解できるかと言えば、それは違うのでしょう。ただ同情することだけはできるかもしれませんが、通貨価値の違いとか、知識としては分かるかもしれませんが、時代の空気みたいなものは、その当時の人になってみなければ分からないものなのでしょう。 時代を描いた作品と言えば、旧制一高時代を描いた作品に、「わが一高時代の犯罪」(高木彬光)、満洲国や大連や満鉄を描いたものに「ペトロフ事件」(鮎川哲也)というのもありますが、これらだって、当時の警察の制度や、満洲と大連のラジオ局が別だとか、華南の人間が北方の言語が分からずに満洲でロシア語を話していた、という「知識」は得られたとしても、それがどういうことか分かるのか、というとやはり違うのでしょう。 多分、私たちは何かを知っているつもりではいても、実は何も知らない、ということの方が多いのではないのでしょうか。それを現代の感覚で見ようとすると、大きな齟齬が起こり、時として時代を無視する傲慢さや視野狹窄へと繋がるのではないのかもしれないです。私も、顔文字が文字変換のようにして出せることを知らなかったわけですし。(^_^;) 少し話を発展させてみましたが、私はそういう意味でも、せめて時代考証だけでもその当時の空気に近づける努力はしないといけないのではないか、そんなことを思いました。よしりん先生の方の話にもどりますが、「ドカベン」の岩鬼も、木枯らし紋次郎を知らなければ、ただ葉っぱを加えているだけとしか感じられませんですよね。 とりあえず、こんなところです。
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感想のつづきです。
泉美木蘭の「トンデモ見聞録」・第140回「人にはいろんな生きざまがあるという話2」
獄妻さんの最後の手紙が恰好良い、凜々しいと感じました、というだけは単純なので、またまた漫画やアニメの例を出します。
「BLACK LAGOON」という作品で、その中に縁日が出てくる場面があるのです。
この作品自体、有名なので知っている方も多いでしょうが、念のため、話を紹介すると…。
ロックという日本人の主人公がラグーン商会という集団に拉致されて、本社の会社からも見捨てられて、以後、ラグーン商会とともにタイのロアナプラという都市で異法すれすれ(というか、犯罪そのもの)の商売をするようになる、という話ですが、その一エピソードの中に、相棒のレヴィという女ガンマンとともに、ロシア系のマフィア、バラライカの通訳として久しぶりに日本に帰国するというものがあります。その中で、レヴィが縁日に興味を示し、射的に興じるのですが、一等賞の景品が手に入らないとずるとしてもめ事になり、そこへ、縁日の主催者である鷲峰組の組長の忘れ形見である雪緒という少女と、そのボディガードである若頭代行の銀さんというキャラクターと知り合う、という場面があります。
私がヤクザと縁日というと、この話を真っ先に連想します。その後、バラライカの目的は組織の日本進出で、鷲峰組と対立状態になり、ロック・レヴィたちもその中にまきこまれてゆく、という筋です。この話の後日談も、木蘭さんの記されているように、トルコ人や韓国人の屋台(この場合だったら、タイ系やロシア系の屋台)が並んでいるのではないか、と想像しました(いや、ひょっとしたら、縁日自体が消滅しているのかもしれない)。
話のついでにあげるけれども「BLACK LAGOON」ではヘンデルとグレーテルのエピソードも悲惨な、残酷な話だったです。あれも時代が生んだ悲劇。
もっとも、こういう話を視聴しただけで、分かった気分になってはいけないのだ、とも思っています。先に「文学少女」という話を紹介しましたが、それだって、昭和初期の話を、現代人の感覚で完全に理解できるかと言えば、それは違うのでしょう。ただ同情することだけはできるかもしれませんが、通貨価値の違いとか、知識としては分かるかもしれませんが、時代の空気みたいなものは、その当時の人になってみなければ分からないものなのでしょう。
時代を描いた作品と言えば、旧制一高時代を描いた作品に、「わが一高時代の犯罪」(高木彬光)、満洲国や大連や満鉄を描いたものに「ペトロフ事件」(鮎川哲也)というのもありますが、これらだって、当時の警察の制度や、満洲と大連のラジオ局が別だとか、華南の人間が北方の言語が分からずに満洲でロシア語を話していた、という「知識」は得られたとしても、それがどういうことか分かるのか、というとやはり違うのでしょう。
多分、私たちは何かを知っているつもりではいても、実は何も知らない、ということの方が多いのではないのでしょうか。それを現代の感覚で見ようとすると、大きな齟齬が起こり、時として時代を無視する傲慢さや視野狹窄へと繋がるのではないのかもしれないです。私も、顔文字が文字変換のようにして出せることを知らなかったわけですし。(^_^;)
少し話を発展させてみましたが、私はそういう意味でも、せめて時代考証だけでもその当時の空気に近づける努力はしないといけないのではないか、そんなことを思いました。よしりん先生の方の話にもどりますが、「ドカベン」の岩鬼も、木枯らし紋次郎を知らなければ、ただ葉っぱを加えているだけとしか感じられませんですよね。
とりあえず、こんなところです。