時浦さんが、また「言論封殺」呼ばわりされかねないのが非常に忍びない…… まず、小林先生が意見を「変えた」というのは、正確ではない。今でも理想は、山尾志桜里の”立憲的改憲”。しかし、あの当時は立憲民主党の結党初期で、まだ希望が持てた。だから、安倍の改憲案を批判する「ことができた」ということ。 それから、確かに当時、先生は「これなら(憲法は)変えない方がマシ」と発言しておられたが、もしこの時、先生が「加憲案でもやむを得ない」発言していたら、どうなっていたか。芽吹きつつあった立憲的改憲の機運に水をかける結果となっただけだと思う。だから、あの当時は言えるはずがない。 で、なぜ意見を「変えた」のかって? 立憲民主党があのザマで、立憲的改憲の実現が、当時よりもかなり小さい可能性になってしまったからに他ならない。こうなると、「9条」だけでも改正しなければならないと考えるのは、現実的な妥協案。今だって、積極的に支持しているわけではない。まだ「マシ」というだけ。 結局、意見を「変えた変えた」と騒ぐ者は、ハッキリ言って”当事者意識”がない。だから「誤りを認めて謝罪せよ」なんて、尊大なことが言える。 極端な話、もしかしたら小林先生は「間違っていた」のかもしれない。しかし、先生が立憲的改憲の実件に向けて、その時点でのベストを尽くしたことは、先生と当事者意識を少しでも共有した”マトモな読者”なら分かる。 ポジショントークを決め込むのが、一番楽なのですよ。先生は、あるいは与党・野党双方の動向について、外から批評だけしていれば、結論だけは「正しい主張」ができたかもしれない。 でも、先生の信念が、それを許さなかった。政治運動に片足を突っ込み”当事者”となることを選ばれた。表現者としてのリスクを覚悟の上で。 主張の正しさよりも、知に対する誠実さが強く感じられる。だから”小林よしのりを応援したい”、それだけのことかと。
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時浦さんが、また「言論封殺」呼ばわりされかねないのが非常に忍びない……
まず、小林先生が意見を「変えた」というのは、正確ではない。今でも理想は、山尾志桜里の”立憲的改憲”。しかし、あの当時は立憲民主党の結党初期で、まだ希望が持てた。だから、安倍の改憲案を批判する「ことができた」ということ。
それから、確かに当時、先生は「これなら(憲法は)変えない方がマシ」と発言しておられたが、もしこの時、先生が「加憲案でもやむを得ない」発言していたら、どうなっていたか。芽吹きつつあった立憲的改憲の機運に水をかける結果となっただけだと思う。だから、あの当時は言えるはずがない。
で、なぜ意見を「変えた」のかって? 立憲民主党があのザマで、立憲的改憲の実現が、当時よりもかなり小さい可能性になってしまったからに他ならない。こうなると、「9条」だけでも改正しなければならないと考えるのは、現実的な妥協案。今だって、積極的に支持しているわけではない。まだ「マシ」というだけ。
結局、意見を「変えた変えた」と騒ぐ者は、ハッキリ言って”当事者意識”がない。だから「誤りを認めて謝罪せよ」なんて、尊大なことが言える。
極端な話、もしかしたら小林先生は「間違っていた」のかもしれない。しかし、先生が立憲的改憲の実件に向けて、その時点でのベストを尽くしたことは、先生と当事者意識を少しでも共有した”マトモな読者”なら分かる。
ポジショントークを決め込むのが、一番楽なのですよ。先生は、あるいは与党・野党双方の動向について、外から批評だけしていれば、結論だけは「正しい主張」ができたかもしれない。
でも、先生の信念が、それを許さなかった。政治運動に片足を突っ込み”当事者”となることを選ばれた。表現者としてのリスクを覚悟の上で。
主張の正しさよりも、知に対する誠実さが強く感じられる。だから”小林よしのりを応援したい”、それだけのことかと。