よしりん先生、みなぼん編集長、時浦師範代、いつもライジング配信ありがとうございます。このようなことをコメントに書くのは初めてで、自分の道徳力のなさを感じてしまいます。 さて、安倍晋三についてですが、残念ながら彼はこの期に及んで、自分をうそつきだとは夢にも思っていないでしょう。それどころか自身を保守的な政策を次々と実現する(予定の)稀有の保守政治家だと思っていることでしょう。 彼は祖父、岸信介、父、安倍晋太郎という保守政治家のもとで保守漬けに育ったいわば「純粋培養の保守」、また、「保守は反左翼」「保守は男系」という固定観念を受験勉強のように覚えこんだ「受験保守」、さらにはそれらの固定観念をブランドもののように身につけた「ブランド保守」です。しかし、身に付けた保守ブランドはたくさんありますが、彼の中心にある感性や感覚を全く感じないのです。だから、「保守は道徳教育」という新たな保守ブランドを誇らしげに見せびらかし、一方でわが身を振り返り、恥を知ることはないという芸当を成し遂げられるのでしょう。 一方で道徳教育についてですが、実は私はその時間どのようなことを学んだか、あまり覚えていません。道徳教育が身についていないということでしょう。ただ、小学生の時は比較的素直に受け入れていたと思いますが、高学年になるに従い、斜に構えるようになり、しかし、反論するだけの材料もなく、自分が思いもしないようなきれいごとを作文に書いて先生に丸をもらい、複雑な気持ちになるということがたまにありました。ただ、このような私でも普通の生活を送れるぐらいの道徳力を身につけることはできたわけですが、それは現実の生活の中で親に怒られたり、友達とけんかしたり、人を裏切ったり助けたりして、悲しみや怒り、挫折、喜びなど喜怒哀楽の感情や感性を総動員して学んだものだったように思います。 かといって、道徳教育について否定はしません。人が生きていくためのルールをきちんと教えていく場は必要と考えるからですが、血の通ったものであってほしいとも思います。しかし、安倍晋三にそのような血の通った道徳教育ができるように思えません。彼はきっとわが身を振り返ることなく、奇麗事を書いて先生から丸をもらって、しかもそれを恥じることがないいけすかない少年だったはずです。 聖人君子になれる人などほとんどおらず、道徳を教える側も例外ではありません。だから、道徳教育というのであれば、せめて、自分の心のうちの悪を常に意識してほしいと思うのは私だけでしょうか。
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小林よしのりチャンネル
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よしりん先生、みなぼん編集長、時浦師範代、いつもライジング配信ありがとうございます。このようなことをコメントに書くのは初めてで、自分の道徳力のなさを感じてしまいます。
さて、安倍晋三についてですが、残念ながら彼はこの期に及んで、自分をうそつきだとは夢にも思っていないでしょう。それどころか自身を保守的な政策を次々と実現する(予定の)稀有の保守政治家だと思っていることでしょう。
彼は祖父、岸信介、父、安倍晋太郎という保守政治家のもとで保守漬けに育ったいわば「純粋培養の保守」、また、「保守は反左翼」「保守は男系」という固定観念を受験勉強のように覚えこんだ「受験保守」、さらにはそれらの固定観念をブランドもののように身につけた「ブランド保守」です。しかし、身に付けた保守ブランドはたくさんありますが、彼の中心にある感性や感覚を全く感じないのです。だから、「保守は道徳教育」という新たな保守ブランドを誇らしげに見せびらかし、一方でわが身を振り返り、恥を知ることはないという芸当を成し遂げられるのでしょう。
一方で道徳教育についてですが、実は私はその時間どのようなことを学んだか、あまり覚えていません。道徳教育が身についていないということでしょう。ただ、小学生の時は比較的素直に受け入れていたと思いますが、高学年になるに従い、斜に構えるようになり、しかし、反論するだけの材料もなく、自分が思いもしないようなきれいごとを作文に書いて先生に丸をもらい、複雑な気持ちになるということがたまにありました。ただ、このような私でも普通の生活を送れるぐらいの道徳力を身につけることはできたわけですが、それは現実の生活の中で親に怒られたり、友達とけんかしたり、人を裏切ったり助けたりして、悲しみや怒り、挫折、喜びなど喜怒哀楽の感情や感性を総動員して学んだものだったように思います。
かといって、道徳教育について否定はしません。人が生きていくためのルールをきちんと教えていく場は必要と考えるからですが、血の通ったものであってほしいとも思います。しかし、安倍晋三にそのような血の通った道徳教育ができるように思えません。彼はきっとわが身を振り返ることなく、奇麗事を書いて先生から丸をもらって、しかもそれを恥じることがないいけすかない少年だったはずです。
聖人君子になれる人などほとんどおらず、道徳を教える側も例外ではありません。だから、道徳教育というのであれば、せめて、自分の心のうちの悪を常に意識してほしいと思うのは私だけでしょうか。