>>120 感情的になっていたかもしれません。少し冷静に記してみます。 私が思うところも、>>117でクリリンさんのおっしゃられているように、「かりに」京都アニメーション大賞の募集に盗作や不正があったとしても、恨むのはその盗作をした「応募者」の方で、アニメーション会社に怒りをぶつけるは筋違いだ、ということです。あと、予期せぬ事態で会社全体が混乱して、適当な対処ができきれなかった可能性もあリえます。 また、大賞ではなく、京アニのオリジナル作品に、かりにその青葉という人の落選作の「要素」がちりばめられているのだとしたら(それもあり得ないと思うけれども)、それも違うのではないか、とも思います。 ご指摘の通り、確かに他の作品の少しの要素をかえて、オリジナリティーと表している例は幾例か見受けられます。「AURA」という作品は知りませんでしたが、私の知っている限りでは、(京アニ作品ではないですけれども)「学戦都市アスタリスク」と「落第騎士の英雄譚」という2作品は、ともに一見劣等生の男子主人公が実は非常な実力の持ち主で、能力のある孤高のヒロインを助けて学園バトルする、というパターンでよく似ています。しかし、当たり前のことですが、話の内容はやはり全然異なっています(ともにファンのかたがいたら、すみません)。 「中2病でも恋がしたい」も、一見日の当たらないところに視点を向けたオリジナリティーの高い作品だと思いますし、佐村河内守みたいな話ではない、と感じます。そして京都アニメーションは、大賞受賞作でも、随所にクリエイターの独自性を埋め込んでくる会社でもあります(「境界の彼方」のアニメ作品でヒロインが盆栽好きという話は、応募作品にはなかった要素だそうです)。 何をもって盗作とするのか、という規準は非常に微妙で曖昧なものだと思いますが、他の影響を受けていない作品は存在しない、と私は思います。肝腎なのは、物語の中でその要素をどう活用するのか、いかに物語をすすめてゆき、自分の主張する何を訴えかけるか、なのだろうということです。 少し前に松本零士先生が槇原敬之さんの歌詞と自身の作品のセリフが似ていたということで問題になっていますが、それだって、裁判の結果が示しているように、偶然の可能性ということもあり得ると思うのです。 あと、私が感じることは理屈ではないのだけれども、一つでも京都アニメーション制作の作品を見てみると分かるのではないか、と思います。例えば、以前から何度も口に出してきている『聲の形』という映画なのですが、これは原作漫画が存在する作品で、勿論剽窃の疑いようなどない作品です。聾唖者の問題と、いじめの話をうまく組み込ませた名作だと評価しています。こういうタッチの作品を、こんな雰囲気で描いた人たちが、盗作をするとはどうしても私には思えない、ただそれだけなのです。 ただ、今回のこととは別に、確かに少しの部分を変えて、自己の独自性を主張する、ということはあるのではないか、何かヒットした作品の真似をすれば、同じようにヒットすると勘違いしている輩はいるのではないか、ということも感じています。資本主義の仕組みがそういう弊害を内包しているのではないか、スポンサーがいて、作品がつくられるということは、そういうことなのではないか、と。スポンサーが芸術性のためだけにお金を出すとしたら、それも会社の宣伝にはなるのかもしれないけれども、そういうことはその作品を制作者をよほど信頼しない限り起こり得ないものであって、第一義はもうけになってしまうはないか、と。 あまりうまい説明にはなっていないのかもしれませんが、こんなところです。
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>>120
感情的になっていたかもしれません。少し冷静に記してみます。
私が思うところも、>>117でクリリンさんのおっしゃられているように、「かりに」京都アニメーション大賞の募集に盗作や不正があったとしても、恨むのはその盗作をした「応募者」の方で、アニメーション会社に怒りをぶつけるは筋違いだ、ということです。あと、予期せぬ事態で会社全体が混乱して、適当な対処ができきれなかった可能性もあリえます。
また、大賞ではなく、京アニのオリジナル作品に、かりにその青葉という人の落選作の「要素」がちりばめられているのだとしたら(それもあり得ないと思うけれども)、それも違うのではないか、とも思います。
ご指摘の通り、確かに他の作品の少しの要素をかえて、オリジナリティーと表している例は幾例か見受けられます。「AURA」という作品は知りませんでしたが、私の知っている限りでは、(京アニ作品ではないですけれども)「学戦都市アスタリスク」と「落第騎士の英雄譚」という2作品は、ともに一見劣等生の男子主人公が実は非常な実力の持ち主で、能力のある孤高のヒロインを助けて学園バトルする、というパターンでよく似ています。しかし、当たり前のことですが、話の内容はやはり全然異なっています(ともにファンのかたがいたら、すみません)。
「中2病でも恋がしたい」も、一見日の当たらないところに視点を向けたオリジナリティーの高い作品だと思いますし、佐村河内守みたいな話ではない、と感じます。そして京都アニメーションは、大賞受賞作でも、随所にクリエイターの独自性を埋め込んでくる会社でもあります(「境界の彼方」のアニメ作品でヒロインが盆栽好きという話は、応募作品にはなかった要素だそうです)。
何をもって盗作とするのか、という規準は非常に微妙で曖昧なものだと思いますが、他の影響を受けていない作品は存在しない、と私は思います。肝腎なのは、物語の中でその要素をどう活用するのか、いかに物語をすすめてゆき、自分の主張する何を訴えかけるか、なのだろうということです。
少し前に松本零士先生が槇原敬之さんの歌詞と自身の作品のセリフが似ていたということで問題になっていますが、それだって、裁判の結果が示しているように、偶然の可能性ということもあり得ると思うのです。
あと、私が感じることは理屈ではないのだけれども、一つでも京都アニメーション制作の作品を見てみると分かるのではないか、と思います。例えば、以前から何度も口に出してきている『聲の形』という映画なのですが、これは原作漫画が存在する作品で、勿論剽窃の疑いようなどない作品です。聾唖者の問題と、いじめの話をうまく組み込ませた名作だと評価しています。こういうタッチの作品を、こんな雰囲気で描いた人たちが、盗作をするとはどうしても私には思えない、ただそれだけなのです。
ただ、今回のこととは別に、確かに少しの部分を変えて、自己の独自性を主張する、ということはあるのではないか、何かヒットした作品の真似をすれば、同じようにヒットすると勘違いしている輩はいるのではないか、ということも感じています。資本主義の仕組みがそういう弊害を内包しているのではないか、スポンサーがいて、作品がつくられるということは、そういうことなのではないか、と。スポンサーが芸術性のためだけにお金を出すとしたら、それも会社の宣伝にはなるのかもしれないけれども、そういうことはその作品を制作者をよほど信頼しない限り起こり得ないものであって、第一義はもうけになってしまうはないか、と。
あまりうまい説明にはなっていないのかもしれませんが、こんなところです。