今週も配信ありがとうございます! お疲れ様です。 「ゴー宣」読みました。 私の地元では、スーパーにも普通に鯨肉が売ってあります。 赤身の刺身、さえずり(舌)、オバイケ(尾)、鯨ベーコン・・・ 後は、鯨カツもあります。めちゃくちゃ美味しいです。 学校の給食でも竜田揚げとか出て来ましたが、 大人になってからも普通に食べれます。 ヒツジ肉は、昔食べたことあります。 ジビエには臭みを気にすると抵抗が生じたりする方も多いですが、 自分的には特に抵抗はありません。 というか、臭みを感じる肉に今まで当たっていないのかもしれません。 猪肉も割と頻繁に食べます。 鯨が増えすぎると生態系が壊れる可能性があるという問題、 鯨が禁止されたら、次はマグロが禁止されるだろうという問題、 どちらもよく耳にします。 私のように、地元でよく食べることが出来るから慣れ親しんでいて、 食べられなくなるなど、あり得ない!・・・と考える人ばかりでもないようです。 私とは別のところの出身で、やはり鯨肉が普通に食べられているところの生まれの友人にも、 国際的な流れがそうだから・・・と、反捕鯨国の理屈に取り込まれつつある人もいたりします。 その友人は、ニュース等に敏感で、政治の話を好む傾向にありますが、 もしかすると、本来持っていた筈の庶民的な感覚が鈍って、 マスコミやネットの声に扇動される「大衆」になりつつあるのかもしれません。 そうならない為にも、自らの生活の現場に根差す感覚を、よりしっかりと意識する為に、 自らを律していくことも大切なのかなと考えました。 安藤百福氏の姿勢は素晴らしいですね。 氏の思いとは裏腹に、パン食は日本にその後すっかり根付いて行きましたが、 その一方で、カップラーメンは、日本発信の食文化として、 現在広く根付いています。 これを、ジャンクフードが根付いた風潮と捉えるのか、 それとも、安藤百福氏の最初の精神が今も根付いていると考えるのか・・・ 言語と共に、食文化も、日本国や日本人を、日本国たらしめる、日本人たらしめる上での、 基本的にして大きな礎だと改めて思います。 グローバリズムへの抵抗は、即ち、太古の日本が外国からの侵略に対して示して来た、 自主独立と自主防衛の精神へ繋がるものだと思います。 何と言っても、人の基本は、衣食住だと思いますので。 そして公の最大範囲は、やはり国だと思うので、 国がダメになってしまえば、秩序はあっという間に崩壊してしまいます。 しかし、その精神は、今の自称保守・右派が打ち出しているような、国粋主義ではなく、 国民主義で護っていかなければなりません。 旧来の左右対立も時代と共に意味を成さなくなっていきましたが、 現在の左右対立(主に国内)も、共に米国の庇護ありきなので、 これもまた、意味を成しません。 安藤百福氏が戦って来たものは、食文化における米国の侵略であったということからも、そう思います。 食文化という国家と国民を為す為の礎について考えることで、 改めて考えさせられたことです。 「トンデモ見聞録」読みました。 自らの生死が係る時、最期の時、咄嗟の行動など、 その人が試されて、その人の人となりが生々しく出る時は、 やはり、死(生)について否が応でも考えざるを得ない時になるのかな、と改めて思いました。 最期まで好きなものを食べたり飲んだりしながら一生を終える、というのも、 とことん「私」に執着して、みっともなく「快楽」に縋るという姿もあり、 自分などは、そうなってしまう恐れがあるのですが、 泉美先生の御父様のように、美学を貫いて、一生を全うする、という姿は、 本当に気高いと思いますし、終末期医療や延命治療の是非についても、 ここから考えさせられるところがあります。 「好きなことも自分の節度の範囲内で楽しむ」という姿勢も、 自らの死期が近づいたり、病で苦しい思いをしたら、 どうしても自分の「我」が抑えきれなくなりそうですが、 そこを真摯に守り続けるという姿勢は、 本当に真似が出来ないですし、崇高です。 また、御家族の様子や、これまでの一家の様子を文章で読ませて戴きますと、 そこに偽らざるリアルな悲喜交々を感じて、 「葬儀」という荘厳な儀式で、それをお互いに確認されたところもあるのかな、と感じました。 私自身も、親族を亡くした時のことや、友人の葬儀の時のことなどを思い出しました。 生涯の最期に、その人の生の足跡が如実に示されるのだと思いました。 泉美先生の御父様の御冥福を慎んでお祈り申し上げます。
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今週も配信ありがとうございます!
お疲れ様です。
「ゴー宣」読みました。
私の地元では、スーパーにも普通に鯨肉が売ってあります。
赤身の刺身、さえずり(舌)、オバイケ(尾)、鯨ベーコン・・・
後は、鯨カツもあります。めちゃくちゃ美味しいです。
学校の給食でも竜田揚げとか出て来ましたが、
大人になってからも普通に食べれます。
ヒツジ肉は、昔食べたことあります。
ジビエには臭みを気にすると抵抗が生じたりする方も多いですが、
自分的には特に抵抗はありません。
というか、臭みを感じる肉に今まで当たっていないのかもしれません。
猪肉も割と頻繁に食べます。
鯨が増えすぎると生態系が壊れる可能性があるという問題、
鯨が禁止されたら、次はマグロが禁止されるだろうという問題、
どちらもよく耳にします。
私のように、地元でよく食べることが出来るから慣れ親しんでいて、
食べられなくなるなど、あり得ない!・・・と考える人ばかりでもないようです。
私とは別のところの出身で、やはり鯨肉が普通に食べられているところの生まれの友人にも、
国際的な流れがそうだから・・・と、反捕鯨国の理屈に取り込まれつつある人もいたりします。
その友人は、ニュース等に敏感で、政治の話を好む傾向にありますが、
もしかすると、本来持っていた筈の庶民的な感覚が鈍って、
マスコミやネットの声に扇動される「大衆」になりつつあるのかもしれません。
そうならない為にも、自らの生活の現場に根差す感覚を、よりしっかりと意識する為に、
自らを律していくことも大切なのかなと考えました。
安藤百福氏の姿勢は素晴らしいですね。
氏の思いとは裏腹に、パン食は日本にその後すっかり根付いて行きましたが、
その一方で、カップラーメンは、日本発信の食文化として、
現在広く根付いています。
これを、ジャンクフードが根付いた風潮と捉えるのか、
それとも、安藤百福氏の最初の精神が今も根付いていると考えるのか・・・
言語と共に、食文化も、日本国や日本人を、日本国たらしめる、日本人たらしめる上での、
基本的にして大きな礎だと改めて思います。
グローバリズムへの抵抗は、即ち、太古の日本が外国からの侵略に対して示して来た、
自主独立と自主防衛の精神へ繋がるものだと思います。
何と言っても、人の基本は、衣食住だと思いますので。
そして公の最大範囲は、やはり国だと思うので、
国がダメになってしまえば、秩序はあっという間に崩壊してしまいます。
しかし、その精神は、今の自称保守・右派が打ち出しているような、国粋主義ではなく、
国民主義で護っていかなければなりません。
旧来の左右対立も時代と共に意味を成さなくなっていきましたが、
現在の左右対立(主に国内)も、共に米国の庇護ありきなので、
これもまた、意味を成しません。
安藤百福氏が戦って来たものは、食文化における米国の侵略であったということからも、そう思います。
食文化という国家と国民を為す為の礎について考えることで、
改めて考えさせられたことです。
「トンデモ見聞録」読みました。
自らの生死が係る時、最期の時、咄嗟の行動など、
その人が試されて、その人の人となりが生々しく出る時は、
やはり、死(生)について否が応でも考えざるを得ない時になるのかな、と改めて思いました。
最期まで好きなものを食べたり飲んだりしながら一生を終える、というのも、
とことん「私」に執着して、みっともなく「快楽」に縋るという姿もあり、
自分などは、そうなってしまう恐れがあるのですが、
泉美先生の御父様のように、美学を貫いて、一生を全うする、という姿は、
本当に気高いと思いますし、終末期医療や延命治療の是非についても、
ここから考えさせられるところがあります。
「好きなことも自分の節度の範囲内で楽しむ」という姿勢も、
自らの死期が近づいたり、病で苦しい思いをしたら、
どうしても自分の「我」が抑えきれなくなりそうですが、
そこを真摯に守り続けるという姿勢は、
本当に真似が出来ないですし、崇高です。
また、御家族の様子や、これまでの一家の様子を文章で読ませて戴きますと、
そこに偽らざるリアルな悲喜交々を感じて、
「葬儀」という荘厳な儀式で、それをお互いに確認されたところもあるのかな、と感じました。
私自身も、親族を亡くした時のことや、友人の葬儀の時のことなどを思い出しました。
生涯の最期に、その人の生の足跡が如実に示されるのだと思いました。
泉美先生の御父様の御冥福を慎んでお祈り申し上げます。