ゲラルト のコメント

今週も配信ありがとうございます。
道場もライジングも非常に勉強になりました。

数ヶ月前から、よしりん先生が度々自然権について言及していたことに、最初は違和感がありました。
先生のおっしゃることは分ったのですが、自然権や社会契約説は近代国家ならば当然受け入れなければならないフィクションであり、今さら疑問を呈するのはどうなんだ?と思っていました。
数ヶ月間悶々と考え続け、政治思想について改めて勉強し、先日の道場を聞いてこのライジングを読み、かなり整理できてきました。

自然権思想や社会契約説は近代国家を正当化する優れた理論ですが、日本人の感覚とは相容れないものもあり、全面的に受け入れるべきではないということに納得できるようになりました。
西洋思想が普遍の真理だと思う必要はなく、日本独自の思想があると堂々と主張して良いということですね。
日本ではまだ、政治思想の精緻な理論や体系が確立していないがために、西洋と比べると見劣りがすると思っていましたが、それを確立させていこうという壮大な理想を聞き、感服しました。

確かに、日本を始め非ヨーロッパの民主主義国(日本が民主主義国でいられるかどうかも問題ですが)において人権や国家を理論化する新しい思想が必要だと思います。

ヨーロッパには古代ギリシャの時代から「自由」や「平等」は人間の本性であるとする伝統があり、その上に近代思想が生まれたのでしょう。
それを人間に普遍的なものだと言ってしまっては、近代まで「自由」や「平等」という概念を持たなかったアジアの人間は、それまで人間の本性を体現していなかった遅れた人間である、ということになります。
これは西洋中心主義であり、極めて傲慢な考えです。

近代になり西洋思想を輸入した日本で、植木や頭山たちは「自由」や「平等」という概念を学び、これは素晴らしい考えであり日本でも実現すべきだ、と考えてその獲得を目指したのではないかと思います。

私も「自由」や「平等」は必要だとは思いますが、生まれながらに与えられるものだから必要だと考えるのではなく、自分で必要だと認識したから必要なのだという考え方をするようにしたいと思います。

この考えはよしりん先生が考案した人権普遍主義―人権国家主義というベクトルの中では中間になるのではないかと思います。もしくは3つ目の考えです。
人権は国家が与えるもので、国家の認める限りにおいて保障され、国家がいつでも奪えるという極端な人権国家主義(中国や北朝鮮など独裁国家のそれ)ではなく、国家は国民が要求した人権を必ず保障しなければならず、奪えないという人権思想です。
この点が既存の政治思想では十分に説明できていないと思います。(私の勉強不足かもしれませんが)


幕末・明治の思想家たちは日本の政治思想を打ち立てようと奮起したのだと思います。
しかし結局それを確立できないまま、戦争に向かう中で縮小し、敗戦でついに潰えてしまいました。

今日では西洋思想が普遍的だと考える人も多くいますが、日本思想の確立という大いなる試みに期待します。
私もさらに勉強して、考え続けていきたいと思います。

No.19 72ヶ月前

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