よしりん先生、ありがとうございます。 武藤さん、ねこまるさん、みるみるさんもありがとうございます。 まず、当然ですが、私も、自然権は近代国家の前提となるフィクションだと思います。 原始状態では人権を観念出来ても、保障できないからこそ、人権保障のために社会契約で国家を形成したというのが、 近代国家の成立を正当化する前提としてのフィクションですよね。 近代国家形成の前提として存在すると観念される、国家前の存在としての自然権(フィクションであるとしても)を完全に否定してしまった場合、国家が行う人権制約を批判出来なくなるのではないでしょうか。 共謀罪や特定秘密保護法でも、近代国家が行う人権制約には、多少であれば正当化出来る理由(治安維持等)が存在していますよね。 人権が完全に国家に従属する存在であるとなれば、もはや我々は、政府が通す法案を批判出来なくなると思います。 日本が近代国家ということにしている以上、「俺たちのための政治をやれよ。」と主張するための理論的な制度として、国家以前の存在としての自然権という観念を手放すべきではないのではないでしょうか。 もう一度、「民主主義という病」と「堕落論」を読んでみます。
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小林よしのりチャンネル
(ID:5482336)
よしりん先生、ありがとうございます。
武藤さん、ねこまるさん、みるみるさんもありがとうございます。
まず、当然ですが、私も、自然権は近代国家の前提となるフィクションだと思います。
原始状態では人権を観念出来ても、保障できないからこそ、人権保障のために社会契約で国家を形成したというのが、
近代国家の成立を正当化する前提としてのフィクションですよね。
近代国家形成の前提として存在すると観念される、国家前の存在としての自然権(フィクションであるとしても)を完全に否定してしまった場合、国家が行う人権制約を批判出来なくなるのではないでしょうか。
共謀罪や特定秘密保護法でも、近代国家が行う人権制約には、多少であれば正当化出来る理由(治安維持等)が存在していますよね。
人権が完全に国家に従属する存在であるとなれば、もはや我々は、政府が通す法案を批判出来なくなると思います。
日本が近代国家ということにしている以上、「俺たちのための政治をやれよ。」と主張するための理論的な制度として、国家以前の存在としての自然権という観念を手放すべきではないのではないでしょうか。
もう一度、「民主主義という病」と「堕落論」を読んでみます。