今週も配信お疲れ様です! ありがとうございます。 感想遅くなってしまってスミマセン。 「ゴー宣」読みました。 無料ブログの方で、TOKYO MX「モーニングCROSS」についての見解を小林先生が簡潔に述べられていて、 その時に自分自身も、それを受けて考えて、その時なりの考えを恥ずかしながら文章にしてみたのですが、 小林先生は当然と言いますか、やはり、遥かに深く、後々まで鋭く突き刺さるような話を、 ライジングのゴー宣でなさっておられて、感服しました。 そもそも、この話題の続きがライジングや他の媒体であるという予想も無かったので、 それも含めてびっくりでしたが。 ここで思ったのが、 自称リベラル(左翼)の鳥越俊太郎氏と、自称保守(似非保守・ネトウヨ)の古谷経衡氏が同じような結論になってしまっているということです。 結局は、自分が敵対する(と思っている)、相手の陣営(?)のことしか頭に無いように客観的に見えてしまって、、 自分自身が現在どういう立ち位置にいるかという、自分自身への客観的視点が、御二方とも欠けているように思います。 商売として、プロとして言論でメシを食っている、というのであれば、 自分の文章を読んでくれるお客さんに対する意識というのは、あって然るべきなんじゃないかと思うのです。 その昔、呉智英氏が「産経新聞も朝日新聞も商売でやっているんだよ」ということを仰っていましたが、 当時、そのことにリアリティを感じておりましたが、 商売と言っても、その時その時の時世というものが、右だろうと左だろうとあるのではないのか、 戦時中の新聞も多くの国民が熱狂してイケイケGOGOになっていたから、 商売としてそれに乗っかっていたのではないのか?戦時中の締め付けの中で、 異論を発表することは、面倒くさいし、自分達にも類が及ぶし、 報道や思想のポリシーよりも、当時の空気を読むことが最優先だったのではないか、 ・・・ということを思ってしまいます。 それでも、戦前の人達と現代の我々とでは、比べるべくもない根底にあるものがあるとは思いますが。 元号についても、深いところまで考えている人は少ないのではないでしょうか。 自分達の都合・利便性が、まず在りきで考えているように思います。 とにかく今の自分達が良ければそれでいいや、的な考えです。 皇統について考える、ということも、憲法について考える、ということも、 自分達の子孫のことまで含めて考える、ということに繋がる訳で、 かつ、自分達の御先祖様のことまで考えることが、自分達の子孫のことまで考えることに繋がるのだと思います。 明治以降、それも、自分達が戦後の安寧な立場にいた上で、安全圏からの物言いで明治のことを、ちょっと考えてみた、 それだけで、1300年以上前から続く皇統の原則を誤る訳にはいきません。 一見、そのことを考えている風な自称(似非)保守も、男系固執で後先のことは考えていなかったり、皇室や皇族や陛下のことには全然思いを寄せていなかったり、 それは、極左の思考と殆どど変わりがありません。 カレンダー屋の都合とか、コンピュータ屋の都合とか、それは、工夫次第でどうにもなると思います。 私は以前、印刷業界に身を置いていたことがありましたが(昭和~平成の代替わりの頃から数年後でした)、 乗り切って来られた先輩方の話を聞いたことはあります。 つまり、庶民の都合は、工夫次第でどうにかなるということです。 今まで、陛下から賜って来た御恩に比べれば、これくらいのことは、普通に乗り越えられるということだと思います。 コメント欄に寄せられた皆様のコメントを拝読しても、そう思います。 新天皇の即位と同日に退位するという規定が、明治からのものであるということも、 今回のゴー宣を通じて知ったことですが、 過去の歴史を近代史も含め振り返ることは、とても大事なことだと改めて思いました。 伝統は、時代に応じて変化していくべきものも多々あるということは、これまで学ばせて戴いて来ましたが、 その時代が、特に近代以降ですと、今考えると却ってそぐわない、近代の火急な変化に翻弄された部分もあったのではないか、という検証も必要ではないかと思いました。 ここで、皇室が今の私達にとって必要か否か、私達が天皇を戴く資格はあるのか、ということまで考えていくと、 小林先生と井上達夫先生の対談を思い起こしてしまうのですが、 日本における天皇制が、古代から連綿と続く、先人が生み出した偉大な知恵の研磨の結晶である、ということを考えたいです。 平成のうちに、次代の元号が発表されてしまうという不敬が無いように、いち国民として強く祈ります。 もし、政権がその暴挙を犯してしまった時は、その不敬を歴史に私達が刻まなければなりません。 「トンデモ見聞録」読みました。 ネトウヨ珍クレーム集、爆笑です。 これは、ネトウヨだけでなくネトサヨにも該当しそうで、 四六時中ネット漬けになっているネット民だけでなく、 遅くまで働いて、でも一日のニュースをネットに求めてしまっている人達にも当てはまってしまっていると思いました。 脱原発にしても、国内の米軍基地についても、深く考えちゃいけないんですよね。彼らにとっては。 「エネルギーは原子力に頼らなきゃ足りないったら足りないんだい!」 「今どき在日米軍基地に文句言う奴は、そういう団体だってことだ、お察し!」 ですからね。 文中で()カッコ内で、ネット民の本音をズバリ言い当てちゃってるところも笑っちゃいました。 ヤフコメは、ちょっと前に規制でいくらかマシになったのかな、と思った時期もあったのですが、 今も変わらないみたいですね。 というか「規制」っていうのがそもそも怪しいですからね。 竹田恒泰やKAZUYAの動画が一斉にBAN(削除)されたのはネット民のけしかけが発端だったみたいですが、 GAFA(Google、Apple、facebook、amazon)の我が世の春の勢いからくる全体主義も、 そういうネット民を後押ししてしまっているのかなと思います。 ネット民の中では、それがネトサヨだ、俺らは保守だ!とか、 みみっちい罵り合いをしているのでしょうかね。 GAFAは「言葉狩り」に熱心なようですが、 ネット民は5ちゃんねるなどで、表向き言葉狩りされた差別語をバンバン使いまくって、 その言葉が規制される前よりも遥かに酷い状況をネットで拡散しまくっています。 そして、「卒ウヨ」したら、「極左」しか無いんかい!っていうのも爆笑です。 ネトサヨの方は「卒リベラル」したら。「極右」しか無いんでしょうかね。 つまり、ネットは「現実から目を背ける」為の巧妙な入り口、だってことだと思ってしまいます。 四六時中ネットに見嵌っている人達はまさにそうでしょうし、 夜遅くまで働いていて、ニュースはネット、という人も、 ひと時の安らぎ(?)をネットに見出しちゃっているんじゃないのかなと。 「自分自身がクッソ忙しい思いで働いてるのに、これ以上クソ難しいこと考えてたまるか!」みたいな。 ネットというのは、本当に便利です。 地図にしたって、思い出せない言葉にしたって、 ネットを開けば、すぐ解決しちゃうところはあります。 漫画もネットで読むようになっちゃいましたし、映画もネットで見れちゃうし、 音楽もネットでダウンロードする時代になっちゃいました。 改札通る時もスマホで、お店での特典もスマホで、 もうネットが無い頃には戻れないだろうなってくらいの、 物凄いスピードでの堕落の進行っぷりです。 私は「便利」と思っても、なるべく使わないようにしていますが。 これは単に私が偏屈なだけかもしれませんが(汗)。 でも、そこで何かしらの楔を自分で打つ意思を持たなければ、 これまでの歴史で空気に流されてきてしまった先人達の教訓を生かせないことになってしまいます。 その警鐘を鳴らす、優秀な村の長を見極めることも、私達の務めなのかなと思う次第です。
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今週も配信お疲れ様です!
ありがとうございます。
感想遅くなってしまってスミマセン。
「ゴー宣」読みました。
無料ブログの方で、TOKYO MX「モーニングCROSS」についての見解を小林先生が簡潔に述べられていて、
その時に自分自身も、それを受けて考えて、その時なりの考えを恥ずかしながら文章にしてみたのですが、
小林先生は当然と言いますか、やはり、遥かに深く、後々まで鋭く突き刺さるような話を、
ライジングのゴー宣でなさっておられて、感服しました。
そもそも、この話題の続きがライジングや他の媒体であるという予想も無かったので、
それも含めてびっくりでしたが。
ここで思ったのが、
自称リベラル(左翼)の鳥越俊太郎氏と、自称保守(似非保守・ネトウヨ)の古谷経衡氏が同じような結論になってしまっているということです。
結局は、自分が敵対する(と思っている)、相手の陣営(?)のことしか頭に無いように客観的に見えてしまって、、
自分自身が現在どういう立ち位置にいるかという、自分自身への客観的視点が、御二方とも欠けているように思います。
商売として、プロとして言論でメシを食っている、というのであれば、
自分の文章を読んでくれるお客さんに対する意識というのは、あって然るべきなんじゃないかと思うのです。
その昔、呉智英氏が「産経新聞も朝日新聞も商売でやっているんだよ」ということを仰っていましたが、
当時、そのことにリアリティを感じておりましたが、
商売と言っても、その時その時の時世というものが、右だろうと左だろうとあるのではないのか、
戦時中の新聞も多くの国民が熱狂してイケイケGOGOになっていたから、
商売としてそれに乗っかっていたのではないのか?戦時中の締め付けの中で、
異論を発表することは、面倒くさいし、自分達にも類が及ぶし、
報道や思想のポリシーよりも、当時の空気を読むことが最優先だったのではないか、
・・・ということを思ってしまいます。
それでも、戦前の人達と現代の我々とでは、比べるべくもない根底にあるものがあるとは思いますが。
元号についても、深いところまで考えている人は少ないのではないでしょうか。
自分達の都合・利便性が、まず在りきで考えているように思います。
とにかく今の自分達が良ければそれでいいや、的な考えです。
皇統について考える、ということも、憲法について考える、ということも、
自分達の子孫のことまで含めて考える、ということに繋がる訳で、
かつ、自分達の御先祖様のことまで考えることが、自分達の子孫のことまで考えることに繋がるのだと思います。
明治以降、それも、自分達が戦後の安寧な立場にいた上で、安全圏からの物言いで明治のことを、ちょっと考えてみた、
それだけで、1300年以上前から続く皇統の原則を誤る訳にはいきません。
一見、そのことを考えている風な自称(似非)保守も、男系固執で後先のことは考えていなかったり、皇室や皇族や陛下のことには全然思いを寄せていなかったり、
それは、極左の思考と殆どど変わりがありません。
カレンダー屋の都合とか、コンピュータ屋の都合とか、それは、工夫次第でどうにもなると思います。
私は以前、印刷業界に身を置いていたことがありましたが(昭和~平成の代替わりの頃から数年後でした)、
乗り切って来られた先輩方の話を聞いたことはあります。
つまり、庶民の都合は、工夫次第でどうにかなるということです。
今まで、陛下から賜って来た御恩に比べれば、これくらいのことは、普通に乗り越えられるということだと思います。
コメント欄に寄せられた皆様のコメントを拝読しても、そう思います。
新天皇の即位と同日に退位するという規定が、明治からのものであるということも、
今回のゴー宣を通じて知ったことですが、
過去の歴史を近代史も含め振り返ることは、とても大事なことだと改めて思いました。
伝統は、時代に応じて変化していくべきものも多々あるということは、これまで学ばせて戴いて来ましたが、
その時代が、特に近代以降ですと、今考えると却ってそぐわない、近代の火急な変化に翻弄された部分もあったのではないか、という検証も必要ではないかと思いました。
ここで、皇室が今の私達にとって必要か否か、私達が天皇を戴く資格はあるのか、ということまで考えていくと、
小林先生と井上達夫先生の対談を思い起こしてしまうのですが、
日本における天皇制が、古代から連綿と続く、先人が生み出した偉大な知恵の研磨の結晶である、ということを考えたいです。
平成のうちに、次代の元号が発表されてしまうという不敬が無いように、いち国民として強く祈ります。
もし、政権がその暴挙を犯してしまった時は、その不敬を歴史に私達が刻まなければなりません。
「トンデモ見聞録」読みました。
ネトウヨ珍クレーム集、爆笑です。
これは、ネトウヨだけでなくネトサヨにも該当しそうで、
四六時中ネット漬けになっているネット民だけでなく、
遅くまで働いて、でも一日のニュースをネットに求めてしまっている人達にも当てはまってしまっていると思いました。
脱原発にしても、国内の米軍基地についても、深く考えちゃいけないんですよね。彼らにとっては。
「エネルギーは原子力に頼らなきゃ足りないったら足りないんだい!」
「今どき在日米軍基地に文句言う奴は、そういう団体だってことだ、お察し!」
ですからね。
文中で()カッコ内で、ネット民の本音をズバリ言い当てちゃってるところも笑っちゃいました。
ヤフコメは、ちょっと前に規制でいくらかマシになったのかな、と思った時期もあったのですが、
今も変わらないみたいですね。
というか「規制」っていうのがそもそも怪しいですからね。
竹田恒泰やKAZUYAの動画が一斉にBAN(削除)されたのはネット民のけしかけが発端だったみたいですが、
GAFA(Google、Apple、facebook、amazon)の我が世の春の勢いからくる全体主義も、
そういうネット民を後押ししてしまっているのかなと思います。
ネット民の中では、それがネトサヨだ、俺らは保守だ!とか、
みみっちい罵り合いをしているのでしょうかね。
GAFAは「言葉狩り」に熱心なようですが、
ネット民は5ちゃんねるなどで、表向き言葉狩りされた差別語をバンバン使いまくって、
その言葉が規制される前よりも遥かに酷い状況をネットで拡散しまくっています。
そして、「卒ウヨ」したら、「極左」しか無いんかい!っていうのも爆笑です。
ネトサヨの方は「卒リベラル」したら。「極右」しか無いんでしょうかね。
つまり、ネットは「現実から目を背ける」為の巧妙な入り口、だってことだと思ってしまいます。
四六時中ネットに見嵌っている人達はまさにそうでしょうし、
夜遅くまで働いていて、ニュースはネット、という人も、
ひと時の安らぎ(?)をネットに見出しちゃっているんじゃないのかなと。
「自分自身がクッソ忙しい思いで働いてるのに、これ以上クソ難しいこと考えてたまるか!」みたいな。
ネットというのは、本当に便利です。
地図にしたって、思い出せない言葉にしたって、
ネットを開けば、すぐ解決しちゃうところはあります。
漫画もネットで読むようになっちゃいましたし、映画もネットで見れちゃうし、
音楽もネットでダウンロードする時代になっちゃいました。
改札通る時もスマホで、お店での特典もスマホで、
もうネットが無い頃には戻れないだろうなってくらいの、
物凄いスピードでの堕落の進行っぷりです。
私は「便利」と思っても、なるべく使わないようにしていますが。
これは単に私が偏屈なだけかもしれませんが(汗)。
でも、そこで何かしらの楔を自分で打つ意思を持たなければ、
これまでの歴史で空気に流されてきてしまった先人達の教訓を生かせないことになってしまいます。
その警鐘を鳴らす、優秀な村の長を見極めることも、私達の務めなのかなと思う次第です。