ところで、私事ではありますが、部屋のかたづけをしていたら、昔の(2001年11月9日号の)「FLASH」を見つけてしまい、若き日の(失礼な!)柴咲コウのグラビアなどが載っていましたが、よしりん先生の「わしはいかにしてゴーマニストになりしか」という記事があったので(勿論、それが目的で購入したのですが)、本来ならトッキーさんのお仕事なのだろうと思いますが、お節介ながらも少し抜粋してみます。 『戦争論』は、ある意味、わし自身の戦後民主主義、カタカナ左翼からの転向の書といえるし、日本人としてのアイデンティティの目覚めの書みたいなところがある。そういう意味合いにおいて、今の若い人たちと同じ感覚を共有できる、というところがある。 3年前に出して今、約70万部出ているが、今でも若い人たちが読んでて、「すっかり目が覚めた」、「目からウロコが落ちた」と衝撃を受けている。たぶん、わしと同じように戦後の空気の中で育ってきて、あの戦争とは何だったのかとか、日本人がそのときにどのような犠牲を払って、今に結びつけようとしたのか、彼らは初めて知ったのでしょう。それは今までマスコミや学校教育の中からは全然聞こえなかったことだ。 (中略) 他国の軍事的脅威とかをまったく無視して日本だけ無防備に平和主義などを言ってるような感覚は、マスコミなんかからわしにも刷り込まれてきたわけなんだけど、そこに何かが齟齬(そご)をきたすという感覚はずっとあった。 薬害エイズ事件で、官僚が組織維持のため、省益というものに簡単に搦(から)め捕られていく。なぜ個人というものは出来上がらないのかと。またオウム事件でも、なぜああいうふううにカルト、疑似の世界の中に捉(とら)われていくのかと、個人っていったい何なのだろうかと、いうことをしきりに考えはじめた。 で、個人と公、個人と国家がいちばん結びついていた戦争の時代を描いて現在と比較してみようと思って、〝個と公〟をテーマにして『戦争論』をバーンと出したんだ。 『新しい教科書をつくる会』が設立されたのと、わしの『戦争論』が出た時期が一緒になったのは偶然だが、今の中学校のほかの7社の歴史教科書は、階級闘争史観、暗黒史観で一貫して書かれている。それでは日本語はどうやってできたのかとか、日本という国家意識がどういうふうにできたのか、といったことを説明できない。悪い権力が出てきて、いつも百姓一揆ばっかしやってたような国が、じゃあなぜ今こんなに豊かになって、不況の中でもいちおう、経済的には世界第2位であって、貯蓄高がこれだけあるという話になるのか(註:平成13年の時点でのことです)。それを説明しなければ、我々は何者なのかということを説明しなければ、歴史というものにならない。 そういうことが、結局全然わかんなくて、豊かさに対して罪悪感だけ持ってしまうような若い人たちが疑心に捉われて、終末思想の中にどんどん入ってしまったというのが、オウムの信者だったりするわけでしょ。歴史を喪失してしまっているのだから、どんな歴史観でも入り込んでいってしまうんですよ。「つくる会」の教科書はそれらを説明できるような記述をしているわけです。もちろん支持する人もたくさんいる。(後略) 当時から、オウムや個と公のことが強調されており、このメッセージを読み違えて、「日本人だから偉い、立派だ」みたいな視野狹窄に陥ってしまった人たちにも、読み直して欲しい文章だと思います。恐らくネトウヨというかたがたは「我々は何者か」という箇所をよみ間違えているのではないか、と想像します。 3 しゃべらせてクリ!・第238回「しぎゃびー! 嵐の海で絶体絶命ぶぁい!の巻 遅れましたが、自分の下らない投稿を掲載してくださり、有難うございます。あの言葉は、学生時代の流行語でした。しかし、袋小路君のセリフが少しかたすぎたのが難点だったと反省します。 以上、少し長くなりました。反省します。
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ところで、私事ではありますが、部屋のかたづけをしていたら、昔の(2001年11月9日号の)「FLASH」を見つけてしまい、若き日の(失礼な!)柴咲コウのグラビアなどが載っていましたが、よしりん先生の「わしはいかにしてゴーマニストになりしか」という記事があったので(勿論、それが目的で購入したのですが)、本来ならトッキーさんのお仕事なのだろうと思いますが、お節介ながらも少し抜粋してみます。
『戦争論』は、ある意味、わし自身の戦後民主主義、カタカナ左翼からの転向の書といえるし、日本人としてのアイデンティティの目覚めの書みたいなところがある。そういう意味合いにおいて、今の若い人たちと同じ感覚を共有できる、というところがある。
3年前に出して今、約70万部出ているが、今でも若い人たちが読んでて、「すっかり目が覚めた」、「目からウロコが落ちた」と衝撃を受けている。たぶん、わしと同じように戦後の空気の中で育ってきて、あの戦争とは何だったのかとか、日本人がそのときにどのような犠牲を払って、今に結びつけようとしたのか、彼らは初めて知ったのでしょう。それは今までマスコミや学校教育の中からは全然聞こえなかったことだ。
(中略)
他国の軍事的脅威とかをまったく無視して日本だけ無防備に平和主義などを言ってるような感覚は、マスコミなんかからわしにも刷り込まれてきたわけなんだけど、そこに何かが齟齬(そご)をきたすという感覚はずっとあった。
薬害エイズ事件で、官僚が組織維持のため、省益というものに簡単に搦(から)め捕られていく。なぜ個人というものは出来上がらないのかと。またオウム事件でも、なぜああいうふううにカルト、疑似の世界の中に捉(とら)われていくのかと、個人っていったい何なのだろうかと、いうことをしきりに考えはじめた。
で、個人と公、個人と国家がいちばん結びついていた戦争の時代を描いて現在と比較してみようと思って、〝個と公〟をテーマにして『戦争論』をバーンと出したんだ。
『新しい教科書をつくる会』が設立されたのと、わしの『戦争論』が出た時期が一緒になったのは偶然だが、今の中学校のほかの7社の歴史教科書は、階級闘争史観、暗黒史観で一貫して書かれている。それでは日本語はどうやってできたのかとか、日本という国家意識がどういうふうにできたのか、といったことを説明できない。悪い権力が出てきて、いつも百姓一揆ばっかしやってたような国が、じゃあなぜ今こんなに豊かになって、不況の中でもいちおう、経済的には世界第2位であって、貯蓄高がこれだけあるという話になるのか(註:平成13年の時点でのことです)。それを説明しなければ、我々は何者なのかということを説明しなければ、歴史というものにならない。
そういうことが、結局全然わかんなくて、豊かさに対して罪悪感だけ持ってしまうような若い人たちが疑心に捉われて、終末思想の中にどんどん入ってしまったというのが、オウムの信者だったりするわけでしょ。歴史を喪失してしまっているのだから、どんな歴史観でも入り込んでいってしまうんですよ。「つくる会」の教科書はそれらを説明できるような記述をしているわけです。もちろん支持する人もたくさんいる。(後略)
当時から、オウムや個と公のことが強調されており、このメッセージを読み違えて、「日本人だから偉い、立派だ」みたいな視野狹窄に陥ってしまった人たちにも、読み直して欲しい文章だと思います。恐らくネトウヨというかたがたは「我々は何者か」という箇所をよみ間違えているのではないか、と想像します。
3 しゃべらせてクリ!・第238回「しぎゃびー! 嵐の海で絶体絶命ぶぁい!の巻
遅れましたが、自分の下らない投稿を掲載してくださり、有難うございます。あの言葉は、学生時代の流行語でした。しかし、袋小路君のセリフが少しかたすぎたのが難点だったと反省します。
以上、少し長くなりました。反省します。