今更になって『脱正義論』を読んでいます。 今まで積んであったのは、大きな反響を呼んだ「第14章 運動の功罪ー日常へ復帰せよ!」が、当時大学生だった私には理解出来なかったからです。 その後の『戦争論』も消化不良だったので、読解力のなかった私が『ゴー宣』に戸惑いを感じ始めたきっかけだったのかもしれません。 でも、「現場」を持つ庶民となった今なら、当たり前のように理解出来るんです! あの頃は未熟だった……。 では、何故今になって読み始めたのかというと、今週の『ゴー宣』のオウム総括を読んで、「純粋まっすぐ君」についてあらためて自分で考えてみたくなったからです。 特に「仲間内の同調圧力があったら、人は良心をマヒさせて何でもやってしまう」という記述から、日大アメフット部の悪質タックル事件に触れてあったのを見て、「ああ、やはりアレは『オウム的』と解釈すべきだったか」と思い直し――以前にこのコメント欄で「オウムの洗脳と日大の恐怖支配は違う」と強弁していたことを反省し――その節は申し訳ありませんでした。今も未熟だ――日本人ってやはり同調圧力に弱いのだろうか、ということが気になったわけです。 こうして読んだ『脱正義論』は、内容がずっしり詰まった「支える会」のリアルな記録であり、日本の「市民運動論」であり、そして小林先生が『ゴー宣』で「個と公」について大きくクローズアップするようになった端緒となる作品なのかなと思います。 この時点では「私」も「個」と同じ意味で用いられていたようですが(違っていたらすいません)、細かい部分はともかく、「保守」という立場や、「強者」だからこその「弱者」への優しさなど、現在と何ら変わることなく一貫されている揺るぎなさに、あらためて「さすが」と感じます。 いまだにこのコメント欄にはアンチ小林よしのりが乱入しているようですが、「小林よしのりは変わった」というのならば、過去の作品をあらためて読み返してみろ、と言いたいです。 何がどう変わったのか説明できるのか? 過去と同じ感想なのだったら、それは自分が何ら成長していないということではないのか? そして、「小林よしのりは変わった」という意見を抱くアンチは、それをこのコメント欄ではなく、「よしりん企画」に直接ぶつける勇気はあるのか? 執拗に重箱の隅つつき、揚げ足取りをコメント欄に書き込む行動は、いわば「何でも反対する左翼」の「運動」そのものです。 「運動」が目的化しているんです、アンチは。 「運動」によって「気持ちよさ」を味わっていた、「支える会」の学生と同じなんです。 今はこうしてネット上で、ほぼノーリスクで言いたことを言ってますが、小林先生が「失敗だった」と評した「Views」での「支える会」の学生との座談会のように、小林先生を目の前にしてアンチは「先生の主張は、ここがおかしい」と言えるのでしょうか。 自分は「個」が確立している、その上で小林よしのりを批判しているのだ、というのならば、その矛先はこのコメント欄じゃあない、「先生へ直接」であるはずです。 そして、自分も「現場」を持つプロであるのならば、表現者としてのプロである小林先生に対して相応の礼儀をはたらきつつ、「今の先生の言論はおかしい」と訴えればいいんです。 もし目にとまる文章があれば、ひょっとしたらブログで取り上げてくれるかもしれない。 それをせずに、こそこそと「自分は小林よしのりが間違っている所が分かっている」というコメントをこの場でばらまいてばかりいるのは、「プロ」に相対する気持ちがないんです。 「プロ」を尊重していない。 「運動」に酔いしれている学生と同じです。 普段は自分の「現場」を大事にしつつ、政治や社会の問題には関心を抱いている「物言わぬ市民」と真逆。 「プロ」に徹し切れていないから、「プロ」に任せられない、「プロ」を尊重できない。 「そんなことよりも~、小林君はこの前はあんなこと言ってたのに~、最近はこんな言い方するのはおかしいんだから~、それを考えるのは大切だと思いますぅ~」って、学級会みたいに主張するのか? もしこれを読んでいるアンチがいたとして、反感を感じたのであれば、すぐさま『脱正義論』や『戦争論』を読み直してみればいいんです。 『脱正義論』は、小さな字でびっしりと綴られた「秘書カナモリの日記」まで読むべきです。 そこまで読まないと、小林先生の立場や人間性のようなものは理解出来ないし、その上でそれでも「小林はブレた」と言えるのか、自分たちで考えてみればいい。 とっくに社会に出て「プロ」になっているはずの自分たちが、「支える会」の学生たちよりも卑怯で矮小な人間に成り下がってることに気付くかもしれない。 すいません、少し話題がずれてしまいましたが……。 私自身も本当に未熟で、まだまだ勉強しないといけないことが山ほどあるわけで、でも仕事もあるからなかなか時間が取れないし――ということを考える中で、やはり「プロ」の言論や表現は何かに気付かせてくれる、刺激を与えてくれる、というのは確実なわけであり、そして自分も「プロ」としてお客様に接しているという事実を振り返っていました。 するとやはり、ネトウヨは「プロ」というものを尊重しておらず、「プロ」が背負っている責任や覚悟にも無自覚なわけであり、それはすなわち組織にからめとられてしまった当時の厚生省の役人やオウム信者とも同列であるのだろう、と思いました。 『ゴー宣』の「オウム総括シリーズ」は非常に意義のある内容です。 残念ながら、現在の日本にも全く通用してしまう、という意味において、「個と公」というのは永遠のテーマなのだろうかと感じました。
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今更になって『脱正義論』を読んでいます。
今まで積んであったのは、大きな反響を呼んだ「第14章 運動の功罪ー日常へ復帰せよ!」が、当時大学生だった私には理解出来なかったからです。
その後の『戦争論』も消化不良だったので、読解力のなかった私が『ゴー宣』に戸惑いを感じ始めたきっかけだったのかもしれません。
でも、「現場」を持つ庶民となった今なら、当たり前のように理解出来るんです!
あの頃は未熟だった……。
では、何故今になって読み始めたのかというと、今週の『ゴー宣』のオウム総括を読んで、「純粋まっすぐ君」についてあらためて自分で考えてみたくなったからです。
特に「仲間内の同調圧力があったら、人は良心をマヒさせて何でもやってしまう」という記述から、日大アメフット部の悪質タックル事件に触れてあったのを見て、「ああ、やはりアレは『オウム的』と解釈すべきだったか」と思い直し――以前にこのコメント欄で「オウムの洗脳と日大の恐怖支配は違う」と強弁していたことを反省し――その節は申し訳ありませんでした。今も未熟だ――日本人ってやはり同調圧力に弱いのだろうか、ということが気になったわけです。
こうして読んだ『脱正義論』は、内容がずっしり詰まった「支える会」のリアルな記録であり、日本の「市民運動論」であり、そして小林先生が『ゴー宣』で「個と公」について大きくクローズアップするようになった端緒となる作品なのかなと思います。
この時点では「私」も「個」と同じ意味で用いられていたようですが(違っていたらすいません)、細かい部分はともかく、「保守」という立場や、「強者」だからこその「弱者」への優しさなど、現在と何ら変わることなく一貫されている揺るぎなさに、あらためて「さすが」と感じます。
いまだにこのコメント欄にはアンチ小林よしのりが乱入しているようですが、「小林よしのりは変わった」というのならば、過去の作品をあらためて読み返してみろ、と言いたいです。
何がどう変わったのか説明できるのか?
過去と同じ感想なのだったら、それは自分が何ら成長していないということではないのか?
そして、「小林よしのりは変わった」という意見を抱くアンチは、それをこのコメント欄ではなく、「よしりん企画」に直接ぶつける勇気はあるのか?
執拗に重箱の隅つつき、揚げ足取りをコメント欄に書き込む行動は、いわば「何でも反対する左翼」の「運動」そのものです。
「運動」が目的化しているんです、アンチは。
「運動」によって「気持ちよさ」を味わっていた、「支える会」の学生と同じなんです。
今はこうしてネット上で、ほぼノーリスクで言いたことを言ってますが、小林先生が「失敗だった」と評した「Views」での「支える会」の学生との座談会のように、小林先生を目の前にしてアンチは「先生の主張は、ここがおかしい」と言えるのでしょうか。
自分は「個」が確立している、その上で小林よしのりを批判しているのだ、というのならば、その矛先はこのコメント欄じゃあない、「先生へ直接」であるはずです。
そして、自分も「現場」を持つプロであるのならば、表現者としてのプロである小林先生に対して相応の礼儀をはたらきつつ、「今の先生の言論はおかしい」と訴えればいいんです。
もし目にとまる文章があれば、ひょっとしたらブログで取り上げてくれるかもしれない。
それをせずに、こそこそと「自分は小林よしのりが間違っている所が分かっている」というコメントをこの場でばらまいてばかりいるのは、「プロ」に相対する気持ちがないんです。
「プロ」を尊重していない。
「運動」に酔いしれている学生と同じです。
普段は自分の「現場」を大事にしつつ、政治や社会の問題には関心を抱いている「物言わぬ市民」と真逆。
「プロ」に徹し切れていないから、「プロ」に任せられない、「プロ」を尊重できない。
「そんなことよりも~、小林君はこの前はあんなこと言ってたのに~、最近はこんな言い方するのはおかしいんだから~、それを考えるのは大切だと思いますぅ~」って、学級会みたいに主張するのか?
もしこれを読んでいるアンチがいたとして、反感を感じたのであれば、すぐさま『脱正義論』や『戦争論』を読み直してみればいいんです。
『脱正義論』は、小さな字でびっしりと綴られた「秘書カナモリの日記」まで読むべきです。
そこまで読まないと、小林先生の立場や人間性のようなものは理解出来ないし、その上でそれでも「小林はブレた」と言えるのか、自分たちで考えてみればいい。
とっくに社会に出て「プロ」になっているはずの自分たちが、「支える会」の学生たちよりも卑怯で矮小な人間に成り下がってることに気付くかもしれない。
すいません、少し話題がずれてしまいましたが……。
私自身も本当に未熟で、まだまだ勉強しないといけないことが山ほどあるわけで、でも仕事もあるからなかなか時間が取れないし――ということを考える中で、やはり「プロ」の言論や表現は何かに気付かせてくれる、刺激を与えてくれる、というのは確実なわけであり、そして自分も「プロ」としてお客様に接しているという事実を振り返っていました。
するとやはり、ネトウヨは「プロ」というものを尊重しておらず、「プロ」が背負っている責任や覚悟にも無自覚なわけであり、それはすなわち組織にからめとられてしまった当時の厚生省の役人やオウム信者とも同列であるのだろう、と思いました。
『ゴー宣』の「オウム総括シリーズ」は非常に意義のある内容です。
残念ながら、現在の日本にも全く通用してしまう、という意味において、「個と公」というのは永遠のテーマなのだろうかと感じました。