今週も配信ありがとうございます! お疲れ様です。 「トンデモ見聞録」読みました。 バルザック記念像のところで笑ってしまったのですが、 その後のカミーユ・クローデルとのエピソードを読んで、 あまりの壮絶さに堪らなくなってしまいました。 でも、どちらにも通底する、芸術、そして芸術家の「狂気」と、ただ「キレイ」なだけではない「美」というものを感じました。 今の学校教育がどうなっているのかは、子供もいないので分からないのですが、 ひと頃は「個性が大事」ということを盛んに徹底させようとしていたように思います。 しかし、人には人それぞれの「個別性」は、当たり前にあっても、 卓越した表現・芸術を生み出す「個性」(他のスポーツでも芸能でも、どの分野でもそうだと思いますが)というのは、 ごくごく限られた人しか持っていないのだ、ということを改めて思いました。 ポール・クローデルの言葉にあるように、本当に「個性」を持っている人というのは、 「個性」を持たない多くの人達のように、当たり前に普通に生きていく、ということが難しいのだろう、と思います。 「個性」など無い方が、平凡に普通に幸せに生きれるのだろうな、と思います。 勿論、現代では相対的貧困もあり、普通に平凡に生きていくことも難しくなっているところもあるのですが・・・。 そして、 カミーユの告発文が、もしネットに載せられたら・・・? 私自身は、小林先生や泉美先生のセクハラ・ヒステリーに関するブログを読む前までは、 「安倍政権は酷い」「安倍夫妻は酷い」「与党には常識を逸したネトウヨ議員だらけ」という思いに傾き過ぎて、 「新・堕落論」の「弱者のルサンチマン」の章も、読んでいたつもりで理解出来ていなかったり、 「脱正義論」での指摘も、考えから抜け落ちてしまっているところがありました。 西部邁氏が仰っていた「時代という綱を、伝統というバランス棒を持ちながら渡っていく。これが保守の構えだ」 そして、井上達夫氏が仰っている「リベラルな人間であるためには、常に自分の言動を自己批判的に吟味しなければいけない」 これは大事なことだな、と思うのですが、 実際、自分自身、そんな大層な人物でも何でもなく、いち素人に過ぎません。 この言葉を自分のものとして飲み込めるまでには、まだまだ、一生かかっても出来ないかもしれません。 たぶん、カミーユ(投稿者が分からなくても、その投稿者)の境遇に同情し、 ロダンに対して怒りをぶつけてしまっていたかもしれません。 実際、今まで、麻生財務相のキャラに対しても「こいつ全然悪びれてないなあ」「頭くるなあ」「火にガソリン注いでるよなあ」と、 つい最近まで思ってしまっていましたから・・・。もろに「弱者のルサンチマン」です。そのものです・・・。 芸術の狂気を含んだ奥深さを感じ取る感受性も、表現の幅が狭められていくようなことになってしまえば、 表現者の方だけでなく、受け手の方も、どんどん劣化していってしまうと思います。 セクハラに対して罰を与えるような法律を作ってしまえば、 共謀罪と同じく、内心の自由を縛る恐ろしいものになってしまう、ということが分かって、ゾッとしました。 しかしその一方で、セクハラを、マナーとして、モラルとして批判するバランス感覚も大事ですね。 このマナーやモラルの部分が、古い体質を引きずってしまっている、というところは、やはりあるのかなと思ってしまいます。
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「トンデモ見聞録」読みました。
バルザック記念像のところで笑ってしまったのですが、
その後のカミーユ・クローデルとのエピソードを読んで、
あまりの壮絶さに堪らなくなってしまいました。
でも、どちらにも通底する、芸術、そして芸術家の「狂気」と、ただ「キレイ」なだけではない「美」というものを感じました。
今の学校教育がどうなっているのかは、子供もいないので分からないのですが、
ひと頃は「個性が大事」ということを盛んに徹底させようとしていたように思います。
しかし、人には人それぞれの「個別性」は、当たり前にあっても、
卓越した表現・芸術を生み出す「個性」(他のスポーツでも芸能でも、どの分野でもそうだと思いますが)というのは、
ごくごく限られた人しか持っていないのだ、ということを改めて思いました。
ポール・クローデルの言葉にあるように、本当に「個性」を持っている人というのは、
「個性」を持たない多くの人達のように、当たり前に普通に生きていく、ということが難しいのだろう、と思います。
「個性」など無い方が、平凡に普通に幸せに生きれるのだろうな、と思います。
勿論、現代では相対的貧困もあり、普通に平凡に生きていくことも難しくなっているところもあるのですが・・・。
そして、
カミーユの告発文が、もしネットに載せられたら・・・?
私自身は、小林先生や泉美先生のセクハラ・ヒステリーに関するブログを読む前までは、
「安倍政権は酷い」「安倍夫妻は酷い」「与党には常識を逸したネトウヨ議員だらけ」という思いに傾き過ぎて、
「新・堕落論」の「弱者のルサンチマン」の章も、読んでいたつもりで理解出来ていなかったり、
「脱正義論」での指摘も、考えから抜け落ちてしまっているところがありました。
西部邁氏が仰っていた「時代という綱を、伝統というバランス棒を持ちながら渡っていく。これが保守の構えだ」
そして、井上達夫氏が仰っている「リベラルな人間であるためには、常に自分の言動を自己批判的に吟味しなければいけない」
これは大事なことだな、と思うのですが、
実際、自分自身、そんな大層な人物でも何でもなく、いち素人に過ぎません。
この言葉を自分のものとして飲み込めるまでには、まだまだ、一生かかっても出来ないかもしれません。
たぶん、カミーユ(投稿者が分からなくても、その投稿者)の境遇に同情し、
ロダンに対して怒りをぶつけてしまっていたかもしれません。
実際、今まで、麻生財務相のキャラに対しても「こいつ全然悪びれてないなあ」「頭くるなあ」「火にガソリン注いでるよなあ」と、
つい最近まで思ってしまっていましたから・・・。もろに「弱者のルサンチマン」です。そのものです・・・。
芸術の狂気を含んだ奥深さを感じ取る感受性も、表現の幅が狭められていくようなことになってしまえば、
表現者の方だけでなく、受け手の方も、どんどん劣化していってしまうと思います。
セクハラに対して罰を与えるような法律を作ってしまえば、
共謀罪と同じく、内心の自由を縛る恐ろしいものになってしまう、ということが分かって、ゾッとしました。
しかしその一方で、セクハラを、マナーとして、モラルとして批判するバランス感覚も大事ですね。
このマナーやモラルの部分が、古い体質を引きずってしまっている、というところは、やはりあるのかなと思ってしまいます。