今週も配信お疲れ様です! ありがとうございます。 「ゴー宣」読みました。 こういう風に、在日韓国人・在日朝鮮人への蔑視とは全く無縁に、 国家としての韓国、反日を国是としている韓国に住む韓国人の意識を批判する論評であるのならば読みたいのですが、 如何せん、巷にあふれる今人気の「右寄り」の本は、韓国人・朝鮮人・在日韓国人・在日朝鮮人へのヘイトに繋がるような、 ただネトウヨ・自称保守の排外主義者を慰撫するだけの本が多すぎます。 小林先生が裁判に訴えたり、訴えられたりした顛末は、ゴー宣で読者として読んで来て、 裁判に訴えたり訴えられたりするということは、こんなにもしんどいことなのか・・・と思ったものですが、 実際にそれを味わった小林先生のしんどさは、味わった人にしか分からないものだと思います。 また、小林先生のような第一線を走る表現者でなくとも、普通に日常を送っている我々が、ある日突然、裁判の原告になったり被告になったりすることはある訳です。 そこで、普段は「モノ言わぬ市民」が「モノ言う市民」になるということですね。 そうなった時まで想定出来るか否か、というのは、本、漫画、映画等々を見て、そこで己の感受性を研ぎ澄ませて、様々な想定を出来るか否か、ということにも、 繋がってくると思います。 それは、戦争を体験したことのない我々の世代でも、いざ戦争になるような局面を想定出来るか否か、にも繋がってくると思います。 Hanadaが持ちだした「スラップ訴訟」、小川榮太郎が持ちだした「言論の自由に対する圧力」との主張、 その内実を知れば、より彼らの主張の誤謬が詳らかになりますが、 その辺りに対する「勘働き」の感覚を研ぎ澄ますことは、読書や日々の研鑽で培われることだと改めて思います。 読売がスラップ訴訟を多く起こしているということは恥ずかしながら知りませんでした。 裁判の勝敗に関係なく、裁判を起こすこと自体で相手に圧力をかけることが出来るということ、 これは大手新聞社や大企業、大資本家の、一個人に対する「権力」の一つでしょう。 しかし、小川や飛鳥新社のバックには安倍政権・自民党がついているという事実、 自民党内でも石破茂氏のように、明確に安倍一強体制に批判をしているところはハブッて、 組織としてヘイト本をバックアップしているという事実には強い憤りを覚えます。 かつて、小林先生が朝日新聞に徹底的に攻撃されたのを受けて立った時とは全然違います。 小川榮太郎や飛鳥新社が、かつての小林先生のように著者自身、出版社単独で朝日新聞と拮抗していたならば、 まだ小川やHanadaに対する見方も違っていたかもしれません。 しかし、現実にはそうではなかった。 かつて、呉智英氏が「朝日新聞も産経新聞も「商売」でやってるんだから」というような発言をされていましたが、 各新聞を等間隔で見るようになり、ダメなものはダメだ、と思うようになった小林先生の過程には、 それまでの戦いの積み重ねの結果があります。 最初から各新聞を相対的に見ている、ということとは違う含蓄があります。 (勿論、呉智英氏も、そのようなことの積み重ねの結果として、そういう認識に至ったのでしょうけれども) そして、花田紀凱の雑誌編集者としての挫折・葛藤からくるトラウマ、産経新聞社の社員が抱えるトラウマ、保守論壇の論客達が抱えるトラウマと、 韓国、そして韓国人が抱えるトラウマとの共通性・符号性は確かにその通りかもしれません。 安倍政権がことあるごとに「民主党政権時には」と、民主党政権時の失策を論って、自分たちの今を挙げて見せる態度とよく似ています。 百田尚樹などが、単なる「反左翼」に過ぎないことも、そういうコンプレックスが滲み出た無残な言葉で、自分は「保守」だと主張しているようなみっともなさに起因すると思います。 西部邁氏は生前に「綱渡りをするときのバランス棒が伝統で、時代という細い綱を渡っていかなければならないのだから、右側に傾いても左側に傾いても谷底に落ちてしまう。 それをどうやって伝統というバランス棒を握りしめて操るか、それが保守だ」というような発言をなさっておられました。 その西部氏自身も、社交をコントロール出来ず、最後には自分の言論の影響力を虚しく感じてしまって自ら命を絶ってしまった訳ですが、 この西部邁氏の「保守」に対する思想はやはり随一だと改めて思います。 保守とリベラリストの違いはありますが、それを体現している人は、読者の私から見て、小林よしのり先生と、井上達夫氏の二人かなと思います。 井上達夫氏の「リベラルである為には常に己の言動を自己批判的に吟味しなければならない」という発言と繋がるところがありますから。 頭山満氏の「ひとりでいても寂しくない人間になれ」という言葉に集約される信念なのかなと改めて思います。 本当に「保守になろう」「リベラリストになろう」とするならば、 自分自身の中での相克を乗り越えることから逃げてはいけないのだと思います。 「ネトウヨ」「護憲固執左派」に突き付けられた「刃」ですね。 「トンデモ見聞録」読みました。 「人前になにかを書くときは、しっかり自己欺瞞と戦わなければならない」ということは、物書きでなくとも、読者としても改めて感じます。 小林先生や泉美先生が執筆された文章、漫画、あるいは動画配信、道場での議論に関して、 多くの衆目の目に晒されるところで感想を書いて発表する、という行為にも、それが伴ってくると思うからです。 天皇陛下の御言葉に関しては、私も薄甘いサヨクであった頃は、泉美先生が仰っているような印象を持っておりました。 その意識から脱するようになったのは、小林先生のゴー宣、天皇論シリーズを読んだからですし、 高森明勅先生の発言にも多大な影響を受けました。 私はいち読者として、倉持先生のメールを読むことが出来る立場にはありませんが、 倉持先生のメールを読んだとされる小林先生の反応や、スタッフでいらっしゃる時浦さんの反応、 そして泉美先生の反応を見て、そして高森先生のブログを読んで、違和感を感じました。 しかし、高森先生と倉持先生のその後のブログを読んで、 そして泉美先生や小林先生のブログを読んで、その時の違和感が完全に晴れた訳ではないものの、 そこをグッと飲み込んで潔く前に進むことも大切だなと思い、 読者として、立憲的改憲案の支持者の一人として、 ゴー宣道場の立憲的改憲の議論を改めて応援して行きたいと考えました。 最後の泉美先生の締めの言葉はとても大切だなと思いました。 他者を批判するならば、自分自身も批判される覚悟を持たなければなりませんし。 それは、表現者として言論を世に問う人たちだけでなく、 それを受け止める読者の側にも、読者としての相応の覚悟がいると改めて思いました。 しかし、そこで重苦しく考え過ぎるのは閉塞感に繋がってしまい兼ねません。 そういう当たり前のことがある上で、 感受性を磨きながら楽しく受け取っていく姿勢も大切かなと思う次第です。 追伸:Q&A回答ありがとうございました。 どれも有難い回答でした。 人脈は「社交」に通じるところがありますからね・・・。 西田佐知子・坂本九、大鵬・柏戸に関しては、1960年代の流行を振り返る番組を見ていた時にあったことです。 漫画のキャラに関しては、某漫画家さんが「過去のキャラでも忘れているキャラは資料を見ながら描いてます」というのがあったので、 小林先生はどうなのかなと思ったことからの質問でした。 「しゃべクリ」も今回も楽しい回答が多いです。 何度も楽しめますね。
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今週も配信お疲れ様です!
ありがとうございます。
「ゴー宣」読みました。
こういう風に、在日韓国人・在日朝鮮人への蔑視とは全く無縁に、
国家としての韓国、反日を国是としている韓国に住む韓国人の意識を批判する論評であるのならば読みたいのですが、
如何せん、巷にあふれる今人気の「右寄り」の本は、韓国人・朝鮮人・在日韓国人・在日朝鮮人へのヘイトに繋がるような、
ただネトウヨ・自称保守の排外主義者を慰撫するだけの本が多すぎます。
小林先生が裁判に訴えたり、訴えられたりした顛末は、ゴー宣で読者として読んで来て、
裁判に訴えたり訴えられたりするということは、こんなにもしんどいことなのか・・・と思ったものですが、
実際にそれを味わった小林先生のしんどさは、味わった人にしか分からないものだと思います。
また、小林先生のような第一線を走る表現者でなくとも、普通に日常を送っている我々が、ある日突然、裁判の原告になったり被告になったりすることはある訳です。
そこで、普段は「モノ言わぬ市民」が「モノ言う市民」になるということですね。
そうなった時まで想定出来るか否か、というのは、本、漫画、映画等々を見て、そこで己の感受性を研ぎ澄ませて、様々な想定を出来るか否か、ということにも、
繋がってくると思います。
それは、戦争を体験したことのない我々の世代でも、いざ戦争になるような局面を想定出来るか否か、にも繋がってくると思います。
Hanadaが持ちだした「スラップ訴訟」、小川榮太郎が持ちだした「言論の自由に対する圧力」との主張、
その内実を知れば、より彼らの主張の誤謬が詳らかになりますが、
その辺りに対する「勘働き」の感覚を研ぎ澄ますことは、読書や日々の研鑽で培われることだと改めて思います。
読売がスラップ訴訟を多く起こしているということは恥ずかしながら知りませんでした。
裁判の勝敗に関係なく、裁判を起こすこと自体で相手に圧力をかけることが出来るということ、
これは大手新聞社や大企業、大資本家の、一個人に対する「権力」の一つでしょう。
しかし、小川や飛鳥新社のバックには安倍政権・自民党がついているという事実、
自民党内でも石破茂氏のように、明確に安倍一強体制に批判をしているところはハブッて、
組織としてヘイト本をバックアップしているという事実には強い憤りを覚えます。
かつて、小林先生が朝日新聞に徹底的に攻撃されたのを受けて立った時とは全然違います。
小川榮太郎や飛鳥新社が、かつての小林先生のように著者自身、出版社単独で朝日新聞と拮抗していたならば、
まだ小川やHanadaに対する見方も違っていたかもしれません。
しかし、現実にはそうではなかった。
かつて、呉智英氏が「朝日新聞も産経新聞も「商売」でやってるんだから」というような発言をされていましたが、
各新聞を等間隔で見るようになり、ダメなものはダメだ、と思うようになった小林先生の過程には、
それまでの戦いの積み重ねの結果があります。
最初から各新聞を相対的に見ている、ということとは違う含蓄があります。
(勿論、呉智英氏も、そのようなことの積み重ねの結果として、そういう認識に至ったのでしょうけれども)
そして、花田紀凱の雑誌編集者としての挫折・葛藤からくるトラウマ、産経新聞社の社員が抱えるトラウマ、保守論壇の論客達が抱えるトラウマと、
韓国、そして韓国人が抱えるトラウマとの共通性・符号性は確かにその通りかもしれません。
安倍政権がことあるごとに「民主党政権時には」と、民主党政権時の失策を論って、自分たちの今を挙げて見せる態度とよく似ています。
百田尚樹などが、単なる「反左翼」に過ぎないことも、そういうコンプレックスが滲み出た無残な言葉で、自分は「保守」だと主張しているようなみっともなさに起因すると思います。
西部邁氏は生前に「綱渡りをするときのバランス棒が伝統で、時代という細い綱を渡っていかなければならないのだから、右側に傾いても左側に傾いても谷底に落ちてしまう。
それをどうやって伝統というバランス棒を握りしめて操るか、それが保守だ」というような発言をなさっておられました。
その西部氏自身も、社交をコントロール出来ず、最後には自分の言論の影響力を虚しく感じてしまって自ら命を絶ってしまった訳ですが、
この西部邁氏の「保守」に対する思想はやはり随一だと改めて思います。
保守とリベラリストの違いはありますが、それを体現している人は、読者の私から見て、小林よしのり先生と、井上達夫氏の二人かなと思います。
井上達夫氏の「リベラルである為には常に己の言動を自己批判的に吟味しなければならない」という発言と繋がるところがありますから。
頭山満氏の「ひとりでいても寂しくない人間になれ」という言葉に集約される信念なのかなと改めて思います。
本当に「保守になろう」「リベラリストになろう」とするならば、
自分自身の中での相克を乗り越えることから逃げてはいけないのだと思います。
「ネトウヨ」「護憲固執左派」に突き付けられた「刃」ですね。
「トンデモ見聞録」読みました。
「人前になにかを書くときは、しっかり自己欺瞞と戦わなければならない」ということは、物書きでなくとも、読者としても改めて感じます。
小林先生や泉美先生が執筆された文章、漫画、あるいは動画配信、道場での議論に関して、
多くの衆目の目に晒されるところで感想を書いて発表する、という行為にも、それが伴ってくると思うからです。
天皇陛下の御言葉に関しては、私も薄甘いサヨクであった頃は、泉美先生が仰っているような印象を持っておりました。
その意識から脱するようになったのは、小林先生のゴー宣、天皇論シリーズを読んだからですし、
高森明勅先生の発言にも多大な影響を受けました。
私はいち読者として、倉持先生のメールを読むことが出来る立場にはありませんが、
倉持先生のメールを読んだとされる小林先生の反応や、スタッフでいらっしゃる時浦さんの反応、
そして泉美先生の反応を見て、そして高森先生のブログを読んで、違和感を感じました。
しかし、高森先生と倉持先生のその後のブログを読んで、
そして泉美先生や小林先生のブログを読んで、その時の違和感が完全に晴れた訳ではないものの、
そこをグッと飲み込んで潔く前に進むことも大切だなと思い、
読者として、立憲的改憲案の支持者の一人として、
ゴー宣道場の立憲的改憲の議論を改めて応援して行きたいと考えました。
最後の泉美先生の締めの言葉はとても大切だなと思いました。
他者を批判するならば、自分自身も批判される覚悟を持たなければなりませんし。
それは、表現者として言論を世に問う人たちだけでなく、
それを受け止める読者の側にも、読者としての相応の覚悟がいると改めて思いました。
しかし、そこで重苦しく考え過ぎるのは閉塞感に繋がってしまい兼ねません。
そういう当たり前のことがある上で、
感受性を磨きながら楽しく受け取っていく姿勢も大切かなと思う次第です。
追伸:Q&A回答ありがとうございました。
どれも有難い回答でした。
人脈は「社交」に通じるところがありますからね・・・。
西田佐知子・坂本九、大鵬・柏戸に関しては、1960年代の流行を振り返る番組を見ていた時にあったことです。
漫画のキャラに関しては、某漫画家さんが「過去のキャラでも忘れているキャラは資料を見ながら描いてます」というのがあったので、
小林先生はどうなのかなと思ったことからの質問でした。
「しゃべクリ」も今回も楽しい回答が多いです。
何度も楽しめますね。