希蝶 のコメント

師範間の誤解が解決したみたいで、 とても良かったです。
要らぬことを書いてしまひ、すみません円。

ちなみに、先に記した聖書の言葉は、「一粒の麦」のたとへで、麦は地に落ちて死なないと一粒のままで、地に蒔かれることで多くの実を結ぶ、自分の命を大事にしすぎるものは、ただ寿命が来て命を失うだけだけれども、そのことを憎むものは、永遠の命を得ることができる」(ヨハネ福音書第12章)といふものでした。何か讀み違ひをしてしまってゐました。
しかし、これは「来島恒喜」や、「新墮落論」にも通じる言葉であった、と気づかされました。

聖書には、似たやうな言葉として、「種をまく人」のたとへもあり(マタイ福音書13章など)、こちらも考へさせられる言葉です。道ばたに蒔かれた種は、たとへ良い言葉を聞いて感心したとしても、何か都合の悪いことや苦しいことが起こると、元の木阿弥になってしまふのだ、茨の中に蒔かれたものは、誘惑や快楽にまけてしまふ、良い土地にまかれたものだけが、良き実をたくさん結ぶのだ、と。
(今回の騷動についても思ふのですが)人は自分の置かれた環境の中での常識を真理としてとらへてしまひ、個人の常識を多数のものとしてとらへてしまひ、それを世間の常識ととして、他者に押しつけるところがある、といふことです。同じ言葉を用ゐてゐても、そこにこめられた思ひや感情は、人生体験においても、大幅に異なってゐるのでせう。狭い「世間」の常識はお釈迦様の手の中のやうなもので、他者の意見を聞いて、自身をかへりみることも大切だけれども、それだけにこだはてゐると、肝腎な自分自身を見失ふ、と。風聞や、思ひ込みほど危険なものはない。

偉さうなことを書きましたが、いろんな点で、自分もまだまだです(まだまだ過ぎるんですけれども)。やはり、ここで学ぶことが重要で、大切だ、と思ひます。

とりあへず、こんなところで、今号の感想にかへさせていただきます。

No.397 81ヶ月前

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