今週も配信ありがとうございます! お疲れ様です。 今週は「ゴー宣」「トンデモ見聞録」共に、読んでいて、 人の内面の感情を、別の何物かの恣意的な規制で縛ってしまうことの恐ろしさを感じました。 「ゴー宣」の方は「差別論」を思い出すようなテーマでした。 あの時も作中でハゲをギャグにしましたが、 解放出版社側と意見が衝突し、両論併記のような形で掲載するような形になってしまっていました。 全く同じとまでは言いませんが、ダウンタウン浜田の「エディー・マーフィのコスプレ」と称しての黒塗りメイクに関しても、 いろいろな発言が飛び交いました。 「差別論」の頃とは違って、ネットやSNSが普及した御時世ですので、 それこそネットを利用する無数の匿名の人々がワーッと口々にいろいろ言ってました。 私自身も、ついそれを見てしまって、いろいろと考えてしまったり、 2ちゃんねらーらしいネット民が便乗して悪ふざけしているらしい、という情報を聞いて腹が立ってしまったりしていました。 「堕落論」を読んで、スマホ・ネットの「明るい闇」に照らされて自分も堕落している、と感じて、反省しました。 笑いは突き詰めて考えてしまえば、何らかの「差別」になってしまう、というは、仰る通りです。 ガキ使、リアルタイムでは昨年末は見ませんでしたが、年始にもう一度放送する時に見ました。 「変態仮面」や「がきデカ」で大笑いし、月亭方正の蝶野正洋からのビンタでも大笑いしてました。 小林先生の漫画は、私は「東大一直線」リアルタイム世代ではありますが、ちゃんと読んだのは「東大快進撃」からでした。 「いろはにほう作」懐かしいです。「タコちゃん・ザ・グレート」また読みたくなってきました。 ギャグ漫画やお笑い芸人のネタが、時代と共にアナクロになってしまうところはあるかなと思います。 私も、子供の頃は爆笑して読んでたのに(テレビで見てた)のに、今読むと笑えない、というギャグ漫画や、お笑い芸人のネタは多々あります。 しかし、「タコちゃん・ザ・グレート」今改めて一コマ見てみただけでも、今も笑えます。 とんねるずも、保毛尾田保毛男は時代とズレてアナクロになってしまっているのかなと思いましたが、 他のネタで今見ても面白いものもあります。 筒井康隆先生のブラックユーモアだって、弱者を笑いのめすという、強烈な毒があります。 しかし、名作として今も評価されています。 「トンデモ見聞録」でも、「保育園落ちた日本死ね」の文章が、「死ねという乱暴な言葉を使ってはいけない」という、とんでもないクレームで封じられようとしたことが取り上げられましたが、 言葉の表面だけを見て、文章の内容を理解しようともせずに切り捨てるということは由々しきことです。 「ナパーム弾の少女」も、「少女の裸」が映っているということだけを理由に、「児童ポルノ」扱いにされて規制されるということはおかしいです。 機械的・画一的に、表現が規制されていくことは恐ろしいことです。 こういう原理主義的な画一的な規制が横行していく背景には、行間が読めなくなった、ネット普及によって、のっぺりとした杓子定規な思考の人が増えていることもあるのかな、と考えてしまいました。 私は、被爆地長崎で生まれ育ったので、亡き祖父母や、親からも被爆当時の話を何度も聞かされ、学校でも学び、原爆資料館にも子供の頃行きました。 被爆当時の写真を見たことは、右脳の直感で、強烈なインパクトとして残っていることです。 その後、自分で改めて調べてみたり、ゴー宣シリーズを読んだりして、自分の子供の頃に直感で感じたものを、改めて受け取りました。 規制が画一的になっていけば、表現もそれにつれて萎んでいくと思いますし、受け取る側の思考もどんどん劣化してくと思います。 もっと、鋭敏に感覚を研ぎ澄ませて、いろんなモノを見て行く必要がある、と改めて自戒を込めて考えました。
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今週は「ゴー宣」「トンデモ見聞録」共に、読んでいて、
人の内面の感情を、別の何物かの恣意的な規制で縛ってしまうことの恐ろしさを感じました。
「ゴー宣」の方は「差別論」を思い出すようなテーマでした。
あの時も作中でハゲをギャグにしましたが、
解放出版社側と意見が衝突し、両論併記のような形で掲載するような形になってしまっていました。
全く同じとまでは言いませんが、ダウンタウン浜田の「エディー・マーフィのコスプレ」と称しての黒塗りメイクに関しても、
いろいろな発言が飛び交いました。
「差別論」の頃とは違って、ネットやSNSが普及した御時世ですので、
それこそネットを利用する無数の匿名の人々がワーッと口々にいろいろ言ってました。
私自身も、ついそれを見てしまって、いろいろと考えてしまったり、
2ちゃんねらーらしいネット民が便乗して悪ふざけしているらしい、という情報を聞いて腹が立ってしまったりしていました。
「堕落論」を読んで、スマホ・ネットの「明るい闇」に照らされて自分も堕落している、と感じて、反省しました。
笑いは突き詰めて考えてしまえば、何らかの「差別」になってしまう、というは、仰る通りです。
ガキ使、リアルタイムでは昨年末は見ませんでしたが、年始にもう一度放送する時に見ました。
「変態仮面」や「がきデカ」で大笑いし、月亭方正の蝶野正洋からのビンタでも大笑いしてました。
小林先生の漫画は、私は「東大一直線」リアルタイム世代ではありますが、ちゃんと読んだのは「東大快進撃」からでした。
「いろはにほう作」懐かしいです。「タコちゃん・ザ・グレート」また読みたくなってきました。
ギャグ漫画やお笑い芸人のネタが、時代と共にアナクロになってしまうところはあるかなと思います。
私も、子供の頃は爆笑して読んでたのに(テレビで見てた)のに、今読むと笑えない、というギャグ漫画や、お笑い芸人のネタは多々あります。
しかし、「タコちゃん・ザ・グレート」今改めて一コマ見てみただけでも、今も笑えます。
とんねるずも、保毛尾田保毛男は時代とズレてアナクロになってしまっているのかなと思いましたが、
他のネタで今見ても面白いものもあります。
筒井康隆先生のブラックユーモアだって、弱者を笑いのめすという、強烈な毒があります。
しかし、名作として今も評価されています。
「トンデモ見聞録」でも、「保育園落ちた日本死ね」の文章が、「死ねという乱暴な言葉を使ってはいけない」という、とんでもないクレームで封じられようとしたことが取り上げられましたが、
言葉の表面だけを見て、文章の内容を理解しようともせずに切り捨てるということは由々しきことです。
「ナパーム弾の少女」も、「少女の裸」が映っているということだけを理由に、「児童ポルノ」扱いにされて規制されるということはおかしいです。
機械的・画一的に、表現が規制されていくことは恐ろしいことです。
こういう原理主義的な画一的な規制が横行していく背景には、行間が読めなくなった、ネット普及によって、のっぺりとした杓子定規な思考の人が増えていることもあるのかな、と考えてしまいました。
私は、被爆地長崎で生まれ育ったので、亡き祖父母や、親からも被爆当時の話を何度も聞かされ、学校でも学び、原爆資料館にも子供の頃行きました。
被爆当時の写真を見たことは、右脳の直感で、強烈なインパクトとして残っていることです。
その後、自分で改めて調べてみたり、ゴー宣シリーズを読んだりして、自分の子供の頃に直感で感じたものを、改めて受け取りました。
規制が画一的になっていけば、表現もそれにつれて萎んでいくと思いますし、受け取る側の思考もどんどん劣化してくと思います。
もっと、鋭敏に感覚を研ぎ澄ませて、いろんなモノを見て行く必要がある、と改めて自戒を込めて考えました。