今号のライジングの感想です。 ゴーマニズム宣言・第259回「個と公、覚悟なき私人主義」 覚悟といふと、想記することは、「安倍一族」、もとい「阿部一族」です。森さんのこの作品をよんで、(以前に先生宛の手紙でも記しましたが)、壮絶な殺し合ひの話にしか感じられない、といった趣旨のことを述べました(「興津彌五右衛門」はまだ分かる、とも)。そして、作家が述べたかったのは、明治の終はり、大正のはじめにおいて、既に日本人がかうした「武士の意地」を忘れてしまったことへの抗議ではないか、とも。 かういふ話は、ウーマンラッシュアワーの人には分かるのでせうか?同じアベでも、國のために命を捨てることを躊躇するダメプリ首相には。 しかし、阿部一族の場合は、避けられた悲劇だったのではないか、お殿樣がもっとしっかりして、生理的嫌悪感に縛られることなく、若殿がもう少し阿部の先代の殉死や(ここにも「世間」といふものがあるやうにも感じられる)、あとをついだ人がさむらひをやめる、といった氣持ちを理解してあげれば良かったのに、といふ氣はします。「世間の壓力」といへば、その阿部の先代も、お殿樣から遺言された、生き延びて若殿を助ける、といふ言葉を、そのとほりに守れれば良かったのに、とも(これは語句通りとるべきものだったやうにも思へます)。 あと、この一族は、女子供を殺してから戦ひに挑んでゐるし、武功をあげたものも、かねてからの親交も忘れて、あんな一族なんて、お茶の子さいさいだった、みたいに言ってゐるのだから、何だか浮かばれないやうにも思ふのです。 それでも、ことの是非はともかく、かつての日本人はかうだった、といふことを忘れてはいけない、と思ひます。 あと、覚悟といふと、A・E・W・メイスンといふイギリスの作家の「サハラに舞う風(原題:四枚の羽根)」を思ひます。 ハリー・ファイヴァシャムといふ主人公は、軍人の家に生まれて、母親をはやくになくし、そのための重圧に堪へて、幼少期を過ごしてきました。父親の元部下であるサッチ中尉は、そんなハリーの悩みや虞れに気づいてゐて、いざといふ時には自分に相談するやうに、といふ伝言を残しました。青年になり、婚約もしたハリーは、自分がアフリカ戦線(スーダン)へ派遣されると分かった途端、軍隊をやめてしまふのですが、そのことを知った三人の友人(同僚)たちは、ハリーに「臆病者」の烙印を押す三枚の白い羽根をおくり、さらにそれを知った婚約者のエスネも、もう一枚羽根をおくって婚約解消する、といふ事態におちいります。 その後、尾羽うちからしたハリーは、サッチに、独自にスーダンへ行って戦ふ、これは婚約復活のためにするのではない、そのことは諦めた、むしろ死後結ばれることを願って何の見返りも名誉も求めずにひとり孤独に戦ふと言ひ残して立ち去ってゆく、といふ話です(かういふところ、人によっては気持ち悪い、ととるのでせう)。 何だかこの話を聞いてゐると、ハリーは今で言ふ草食男子の典型例のやうに思はれるかもしれないです。しかし、代々武功をあげた家に生まれ、人生最大のしあはせを手に入れり寸前で、ハリーがためらってしまった気持ちは卑怯かもしれないですが、まだ分かるのではないでせうか。果たして、自分は真の意味で勇敢なのか、と疑念をいだいてしまったとしても、責められるのでせうか。これは、まだその村本某の話よりも分かりますし、実際臆病でハリーがスーダンゆきをためらったのではないことは、話をよめば分かります。 そいふか、とても面白い話です。500ページ近い文庫でしたが、あっといふまによめました。ミステリー的な趣向もあります。 惜しむらくは、途中で作者がハリーよりも、その友人のデュランス(羽根の仲間ではない友人)に気を奪はれてしまって、彼とエスネとの関係に力がゆきすぎてゐることですが、それでもハリーのことをまったく忘れてしまってゐるわけではないことです。そして、この話では、イギリスがスーダン侵掠した、といふ歴史的事実は忘れたはうがよいです。むしろ描いてゐるはうです。 ついでにいふなら、メイスンの作品で一番有名なのは、「矢の家」で、奇しくも復刊されてゐます。あれも、騎士道ミステリー小説だと私は思ひますが、憲法とか軍隊の話にはあんまり関係ないです。 長くなりましたが、覚悟といふ言葉をもっとかみしめて、私たちは行動しないといけない、そこには己の弱さ・臆病さや意地と向き合ふことも必要だ、と思ひます。
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今号のライジングの感想です。
ゴーマニズム宣言・第259回「個と公、覚悟なき私人主義」
覚悟といふと、想記することは、「安倍一族」、もとい「阿部一族」です。森さんのこの作品をよんで、(以前に先生宛の手紙でも記しましたが)、壮絶な殺し合ひの話にしか感じられない、といった趣旨のことを述べました(「興津彌五右衛門」はまだ分かる、とも)。そして、作家が述べたかったのは、明治の終はり、大正のはじめにおいて、既に日本人がかうした「武士の意地」を忘れてしまったことへの抗議ではないか、とも。
かういふ話は、ウーマンラッシュアワーの人には分かるのでせうか?同じアベでも、國のために命を捨てることを躊躇するダメプリ首相には。
しかし、阿部一族の場合は、避けられた悲劇だったのではないか、お殿樣がもっとしっかりして、生理的嫌悪感に縛られることなく、若殿がもう少し阿部の先代の殉死や(ここにも「世間」といふものがあるやうにも感じられる)、あとをついだ人がさむらひをやめる、といった氣持ちを理解してあげれば良かったのに、といふ氣はします。「世間の壓力」といへば、その阿部の先代も、お殿樣から遺言された、生き延びて若殿を助ける、といふ言葉を、そのとほりに守れれば良かったのに、とも(これは語句通りとるべきものだったやうにも思へます)。
あと、この一族は、女子供を殺してから戦ひに挑んでゐるし、武功をあげたものも、かねてからの親交も忘れて、あんな一族なんて、お茶の子さいさいだった、みたいに言ってゐるのだから、何だか浮かばれないやうにも思ふのです。
それでも、ことの是非はともかく、かつての日本人はかうだった、といふことを忘れてはいけない、と思ひます。
あと、覚悟といふと、A・E・W・メイスンといふイギリスの作家の「サハラに舞う風(原題:四枚の羽根)」を思ひます。
ハリー・ファイヴァシャムといふ主人公は、軍人の家に生まれて、母親をはやくになくし、そのための重圧に堪へて、幼少期を過ごしてきました。父親の元部下であるサッチ中尉は、そんなハリーの悩みや虞れに気づいてゐて、いざといふ時には自分に相談するやうに、といふ伝言を残しました。青年になり、婚約もしたハリーは、自分がアフリカ戦線(スーダン)へ派遣されると分かった途端、軍隊をやめてしまふのですが、そのことを知った三人の友人(同僚)たちは、ハリーに「臆病者」の烙印を押す三枚の白い羽根をおくり、さらにそれを知った婚約者のエスネも、もう一枚羽根をおくって婚約解消する、といふ事態におちいります。
その後、尾羽うちからしたハリーは、サッチに、独自にスーダンへ行って戦ふ、これは婚約復活のためにするのではない、そのことは諦めた、むしろ死後結ばれることを願って何の見返りも名誉も求めずにひとり孤独に戦ふと言ひ残して立ち去ってゆく、といふ話です(かういふところ、人によっては気持ち悪い、ととるのでせう)。
何だかこの話を聞いてゐると、ハリーは今で言ふ草食男子の典型例のやうに思はれるかもしれないです。しかし、代々武功をあげた家に生まれ、人生最大のしあはせを手に入れり寸前で、ハリーがためらってしまった気持ちは卑怯かもしれないですが、まだ分かるのではないでせうか。果たして、自分は真の意味で勇敢なのか、と疑念をいだいてしまったとしても、責められるのでせうか。これは、まだその村本某の話よりも分かりますし、実際臆病でハリーがスーダンゆきをためらったのではないことは、話をよめば分かります。
そいふか、とても面白い話です。500ページ近い文庫でしたが、あっといふまによめました。ミステリー的な趣向もあります。
惜しむらくは、途中で作者がハリーよりも、その友人のデュランス(羽根の仲間ではない友人)に気を奪はれてしまって、彼とエスネとの関係に力がゆきすぎてゐることですが、それでもハリーのことをまったく忘れてしまってゐるわけではないことです。そして、この話では、イギリスがスーダン侵掠した、といふ歴史的事実は忘れたはうがよいです。むしろ描いてゐるはうです。
ついでにいふなら、メイスンの作品で一番有名なのは、「矢の家」で、奇しくも復刊されてゐます。あれも、騎士道ミステリー小説だと私は思ひますが、憲法とか軍隊の話にはあんまり関係ないです。
長くなりましたが、覚悟といふ言葉をもっとかみしめて、私たちは行動しないといけない、そこには己の弱さ・臆病さや意地と向き合ふことも必要だ、と思ひます。