茶魔とゴーマニズム宣言はベクトルが逆。 よしりん日々の汚い大人との戦いで茶魔のキャラクター,天真爛漫な茶魔のキャラクター を置き去りにしてしまっとる。 そのキャラクターが”いる”だけで”成立”している空気感 ”ひとつ”のコマで醸しだす,そして”完結”していて”それ”が”王道” であるという”美”。つまり,コマ割にも確信がないから迷いが見られる。 いままで”格式(きゃくしき)”のように組上げてきた”おぼっちゃまくん”の”パターン”を ”踏襲”してない。というか真面目に”いち”からつくりすぎている。 おぼっちゃまくんにはおぼっちゃまくんの”表現方法”というか美意識みたいなものが あってこのキャラなら”こう発言する”このように”動く”という”行動原理”がなくて 無理やり作りたい話のためにそれにそぐわない人物に”匂い”を付けて”演じ”させすぎ,で それは”もっとふさわしい”おぼちゃまくんの世界観の中から”探してくる”べきで それは打ち合わせの段階でもう頭に入れておくべきことで,それは”たのしい”ことだとおもいます。 おぼっちゃまくん内の人物が間違った行動をすると出てくる違和感が見ていて”頻発”するので、 つまりは”キャラクター設定”が守られていないとわかる。 つまりはおぼっちゃくんの世界観を再現できていない。 一番大事なのはキャラクターの”行動原理”をしっかりと頭の中で理解して反芻して おいて展開すること。それが”すべて”といっていいし,話もおぼっちゃまくんの物語の”フィルター”を 通して考えれば作る労力のそれも何倍も楽になるはずだと、おもいます。 いままでいってきた”それ”が何かを説明すると,茶魔は”じぶんから動かない”そして 作中で出てきたサメにも”気づかない”というのが,今までのおぼっちゃまくんのキャラ存在感。 茶魔は自分の”手に入れた”ハムを”渡さない”し「投げろ」というのは 別のキャラクターのセリフで「渡したくないぶぁい」と意固地になるのは茶魔の役。 話のキモは茶魔が”楽しんでいる”ことであって”水を手に入れること”ではない。 ワニが普通のワニでおわっている,つまり茶魔によって”いじられて”いないまま”フツー”のワニのまんま。 ”撃退”というか”力の行使””見せ所”も茶魔の持ち味,それは武器が茶魔語であって そこに茶魔の何が”許せないか?”そして”何に反応するか?”が設定(原理)であって”追い詰められたり” ”魔”を払う時の必殺技が”ぜっこーもん”。で撃退する。そして自分の世界を”たたかって”まもる(はっきりとはいわない) 話の展開が速すぎるのもコマ割りが迷っているのもキャラの設定を守ってないから。だから それぞれのキャラクターはもっと天真爛漫に無邪気にしかしだからこそ逆に際立つアンニュイさもうまれる。 襲い掛かってくるのは外からで内(ウチ)のキャラは”純粋であるべき”で茶魔の原理から言っていろいろとおかしさが作中にたくさんある。 だから,もっと可愛く!厳つくいかつくではなくひたすら可愛く!書かないといけない。かわいくないと! とくにさまよちゃんも”みなぼん”みたいで全然,さまよちゃんじゃない。し,上記と同じでセリフも キャラ的にもそう話さない,設定が守られてない。無理に演じさせずにそれにふさわしいキャラを登場させて 展開させることが大事。 どこにウエイトをおくか強調するか何が書きたいのか?が非常に当たり前ながら重要でそれの核はキャラの原理であるという考えです。 と,コロコロアニキをみての感想でした。
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茶魔とゴーマニズム宣言はベクトルが逆。
よしりん日々の汚い大人との戦いで茶魔のキャラクター,天真爛漫な茶魔のキャラクター
を置き去りにしてしまっとる。
そのキャラクターが”いる”だけで”成立”している空気感
”ひとつ”のコマで醸しだす,そして”完結”していて”それ”が”王道”
であるという”美”。つまり,コマ割にも確信がないから迷いが見られる。
いままで”格式(きゃくしき)”のように組上げてきた”おぼっちゃまくん”の”パターン”を
”踏襲”してない。というか真面目に”いち”からつくりすぎている。
おぼっちゃまくんにはおぼっちゃまくんの”表現方法”というか美意識みたいなものが
あってこのキャラなら”こう発言する”このように”動く”という”行動原理”がなくて
無理やり作りたい話のためにそれにそぐわない人物に”匂い”を付けて”演じ”させすぎ,で
それは”もっとふさわしい”おぼちゃまくんの世界観の中から”探してくる”べきで
それは打ち合わせの段階でもう頭に入れておくべきことで,それは”たのしい”ことだとおもいます。
おぼっちゃまくん内の人物が間違った行動をすると出てくる違和感が見ていて”頻発”するので、
つまりは”キャラクター設定”が守られていないとわかる。
つまりはおぼっちゃくんの世界観を再現できていない。
一番大事なのはキャラクターの”行動原理”をしっかりと頭の中で理解して反芻して
おいて展開すること。それが”すべて”といっていいし,話もおぼっちゃまくんの物語の”フィルター”を
通して考えれば作る労力のそれも何倍も楽になるはずだと、おもいます。
いままでいってきた”それ”が何かを説明すると,茶魔は”じぶんから動かない”そして
作中で出てきたサメにも”気づかない”というのが,今までのおぼっちゃまくんのキャラ存在感。
茶魔は自分の”手に入れた”ハムを”渡さない”し「投げろ」というのは
別のキャラクターのセリフで「渡したくないぶぁい」と意固地になるのは茶魔の役。
話のキモは茶魔が”楽しんでいる”ことであって”水を手に入れること”ではない。
ワニが普通のワニでおわっている,つまり茶魔によって”いじられて”いないまま”フツー”のワニのまんま。
”撃退”というか”力の行使””見せ所”も茶魔の持ち味,それは武器が茶魔語であって
そこに茶魔の何が”許せないか?”そして”何に反応するか?”が設定(原理)であって”追い詰められたり”
”魔”を払う時の必殺技が”ぜっこーもん”。で撃退する。そして自分の世界を”たたかって”まもる(はっきりとはいわない)
話の展開が速すぎるのもコマ割りが迷っているのもキャラの設定を守ってないから。だから
それぞれのキャラクターはもっと天真爛漫に無邪気にしかしだからこそ逆に際立つアンニュイさもうまれる。
襲い掛かってくるのは外からで内(ウチ)のキャラは”純粋であるべき”で茶魔の原理から言っていろいろとおかしさが作中にたくさんある。
だから,もっと可愛く!厳つくいかつくではなくひたすら可愛く!書かないといけない。かわいくないと!
とくにさまよちゃんも”みなぼん”みたいで全然,さまよちゃんじゃない。し,上記と同じでセリフも
キャラ的にもそう話さない,設定が守られてない。無理に演じさせずにそれにふさわしいキャラを登場させて
展開させることが大事。
どこにウエイトをおくか強調するか何が書きたいのか?が非常に当たり前ながら重要でそれの核はキャラの原理であるという考えです。
と,コロコロアニキをみての感想でした。