こいら のコメント

言論の自由とどこまで関係があるのか分からないのですが、私はベッキーとゲス極み川谷をネタに彼らを揶揄した歌を作ってライブハウスで歌っています。しかし公なき大衆が言論の自由のイニシアチブを取ってしまうと、不倫を糾弾し吊るし上げる言論の自由はあっても、揶揄しユーモアや皮肉で笑い飛ばす言論の自由は保証されなくなるという危惧を私は感じるのです。
特に最近のネット大衆は、ユーモア精神よりもどれだけネット社会での世間体に合っているか否かで言論の優劣を決めてしまう主体性がない思想を持ってる気がします。大和君失踪事件でも、ネット大衆は本心では尾木ママが言うように父親の虐待を批判したいのに、尾木ママがブログで父親の虐待に触れると、自分たちの本心を棚に上げて尾木ママをスケープゴートにしてブログを炎上させたりしてます。
主体性もないし、自分と向き合ったこともないので「正論のようなもの」に脳みそを乗っ取られてそれに合わないものは排除するという思考回路がネット大衆の脳内に出来上がってます。これは真っ当な批判精神とは全く違うもので、世の中の物事を正しいか間違いかの二択でしか考えられないという恐ろしい思考回路です。
だから、例えばメディアが権力に対して批判と賛同の両論併記をした場合に、どちらか片方の考えに従えばいい、みたいにして思考を放棄しちゃうんだと思うのです。メディアが提示する意見を権力に批判的でも賛成してても自分の考えに同一化すれば、権力を監視する役割を放棄したメディアが権力に取り込まれた場合に、それに異議申し立てすらできない愚民大衆思想のような雰囲気を作ってしまうことになってしまいます。
自分と向き合うことは、例えば様々な本を読むとか、様々な芸術や音楽触れるとか、恋愛をしたり失恋をしたりするとか、あるいは自分のコンプレックスに苦悩するとか、生身の人間が生身の関係の中で悩みながら経験するものです。時には孤独であり疎外感を味わうかもしれませんが、それゆえ人間は成長できるのだと思います。
ところが、今のネット社会だと、それが全てネットで代用できてしまうのです。実存の苦悩がないから正誤だけで事象を判断し、とりあえず声が大きくて正しそうな陣営についておけばいい、みたいになってしまうのです。
宇多田ヒカルが「for you」という歌の中で「誰かのためじゃなく自分のためにだけ歌う歌はいらない、強くなれるためにいつか届くように君にも同じ孤独をあげたい」と歌ってますが、孤独に沈思黙考する姿勢を捨てないことが、真の言論の自由を取り戻すヒントになる気がします。

No.26 102ヶ月前

このコメントは以下の記事についています

継続入会すると1ヶ月分が無料です。 条件を読む

小林よしのりチャンネル

小林よしのりチャンネル

月額
¥550  (税込)
このチャンネルの詳細